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まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

姿を見るとぼーっとする。何度も声を思い出す。
一緒に飲んだラムネの味を忘れられない。

そういうものを全部ひっくるめて「あのひとが好き」だというのなら、「好き」とは何と頼りないのだろう。

 

森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』(2006年、角川書店

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
 

 

ところで、むかしよく見たドラマでは、物語も中盤を過ぎれば、おもいあう男女はその「おもい」自体に疑問を抱いたりしなかった。自分は彼/彼女が好きだ。それが、第三者(恋敵、社会的圧力など)の介入により、かんたんには「好き」でいられなくなる。その結果、さらに「好き」になっていく。

 

好きさ加減が勢いあまって、電車と並走して坂道駆け上ったりしちゃう。

すげーなあ、恋。

 

でも、最近のドラマは少し違ってきたらしい。社会現象にもなった『逃げ恥』では、男女は既に『結婚』している。むかしのドラマでは、結婚とは「好き」あったもの同士がおこなうべきものだったはずなのだけれど、そうではなくなっているらしい(※観てない)

『逃げ恥』しかり、『夜は短し~』しかり、何度も繰り返される問いとは、

 

「わたしのこれは、恋だろうか?」

 

なにをしたら「恋」なのか。肉体が科学的にどういう状態になったら「恋してる」と呼んでいいのか。よく知られているように、そこには答えがない。なんかそういう気分、としか言いようがない。だから、『夜は短し~』の先輩は怯えている。自分が「彼女」を好きだったのは、勘違いだったのかもしれない。妄想だったのかもしれない。これは恋ではなかったかもしれない、と。

 

小説を読むのは「紙についたちっちゃいインクの染みを眺めているだけ」だし、映画を見るのは「白い幕のうえで光の粒が動いているのを見ているだけ」だ。全部、自分が勝手に物語として受け止めただけ――
でも、それでも、”ここで出遭った”ことだけを頼りに、ありもしない赤い糸の綱渡りを一歩踏み出す。だって、そうすることでしか、自分以外の”他者”とかかわることはできない。

 

普通の星の下に生まれ 普通の星の下を歩き

普通の町で君と出会って 特別な恋をする

(byブルーハーツ

 

出遭った君も普通の人だし、自分だってそうだし、別に自分たちでなくてもよかった、いくらでも置き換えは可能なのだという予感におびえながら、「でも、それでも」ともごもごするから、『先輩』の片思いは愛おしいのだとおもう。

マーク・オズボーン監督『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』

「本好き」を標榜する私ではありますが、「星の王子さま」を読んだのはだいぶ大人になってからです。

マーク・オズボーン監督
『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』(2015、フランス)


高校生の時だったかなあ。行きつけの美容室の待合スペースで、一冊だけ挟まってたのです。暇つぶしに読みました。「なんか説話臭い話だなあ」と思ったきりで、特別感動することはありませんでした。

ひとがいいというものに素直に同意したくないお年頃。

いまもか。
(※以下、無駄に長いです)

さて、この映画ではそんな「星の王子さま」の世界が、紙の質感を感じる丁寧なコマどりアニメで再現されています。この質感がほんとうに素晴らしい。いつまでも観ていたくなる。原作をさほど読み込んでいない私でも、「星の王子さま」の世界がすごく愛しくなりました。

タイトルにもあるとおり、この映画は「星の王子様と”私”」の話です。もうひとりの主人公の世界はCGアニメで描かれています。こちらはフルCGのはずですが、動きがすごくコマどりっぽくて可愛いです。

主人公は「女の子」。名前はない。もうすぐ9歳になる。趣味や特技は語られず、「女の子」という記号しか与えられていません。彼女は「お母さん」と一緒に暮らしている。お母さんは激務のかたわら、女の子を「ちゃんとしたおとな」にするため日々奮闘している。分刻みのスケジュール、山のような宿題、人生に役に立つものがもらえる誕生日プレゼント...。女の子に友達はいない。だって勉強の邪魔になるから。本は問題集以外読まない。だって役に立たないから。彼女らは「これからの人生を有利にするための学校」へ行くために、直角に区切られた真っ白な街の一角に越してくる。

「お父さん」はいない。お父さんは女の子の誕生日に、毎年、ビル街に雪が舞うスノードームを送ってくるだけの存在だ。多分「お父さん」が見ているのはそんな風景だけで、9歳になる女の子へのプレゼントにもそんなものしか思いつかない。

女の子は「おとなの星」に暮らしている。「効率的で」「有意義で」「計画的で」その他いろいろ「おとなであれ」と各方面から言われる世界だ。女の子は「おとなになんかなりたくない」とおもう。
女の子はまだ9歳でこどもだけれど、こどもの在り方を忘れてしまっている。大人の世界でなんとかやっていくためには、子どもは子どもであり続けるわけにはいかないからだ。

そんな「女の子」の新しい家の隣にくらしているのが、けったいな老人だ。裏庭で飛行機のプロペラを回して壁を破壊したり、無免許運転してみたり、ケーキ屋さんに嘘ついておまけしてもらおうとしたり、とにかくいろいろ普通じゃない。街では変わり者すぎて疎遠にされている。彼は女の子に自分が書いた物語を一ページずつ手渡す。彼の飛行機が砂漠に不時着したときに出会った、羊をほしがるふしぎな男の子の物語だ。

こうして、女の子は初めて「物語」を読む。

お母さんの言う通り、こんなもの人生のなんの役にも立たない。大学入試に出てこない。株の動きも教えてくれない。字を覚えるには非効率的すぎるし、助長なところが多すぎる。

それでも、わたしたちは物語を読む。誰かとのかなしい別れをやり過ごすのに、楽しい思い出を忘れないために、時に辛く酷く厳しい人生となんとか折り合いつけるために、何が何でも必要だからだ。

映画の終盤、女の子も必要に迫られて「自分の物語」を語りだします。星の王子さまはちゃんと自分の星に帰れたのか、バラとは再会できたのか、王子はどんな「おとな」になったのか。それが知りたくて、荒唐無稽で、あり得ないことが山ほど起きる、ご都合主義の物語を作り上げます。

この映画は、単なる「星の王子さま」という作品の映像化ではなく、「星の王子さまを読んだ”私”の読書体験」の映像化でもあるのです。

ずっとこのしあわせな世界にいたい。
でもやがて、映画は終わる。こどもはおとなになる。長い別れの時が来る。
そんな苦みの余韻まで原作を踏襲した、素敵な映画。

ギャレス・エドワーズ監督 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

ギャレェェェェェェェェス!!!


ギャレェェェェェェェェス!!!

 

ギャレス・エドワーズ監督
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

 

 

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

 

 

 

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー  オリジナル・サウンドトラック

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック

 

 

この世界の片隅でギャレスへの愛を叫びたい私!


以下、叫んだ結果、ネタバレはないですがめちゃめちゃ長くなりました。

誰もが知る『スターウォーズ』シリーズは、銀河帝国の歴史を描く壮大な物語です。『エピソードXX』と名付けられた”正史”に対して、『ローグワン』は”外伝”という位置づけ。「ep4(※SWシリーズ公開第一作目)の10分前までの物語」が描かれています。外伝扱いにはなっていますが、ストーリー的には正史と地続きになっており、「ep4」で説明されていなかった物語が語られるので、一部では「ep3.9」と言われたりもしています。

 さてその「ep3.9」を撮ったひとが、ギャレス・エドワーズ。 低予算怪獣映画の傑作『モンスターズ/地球外生命体』や、あのハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』を撮った人で、どっちも見てもらえると分かるんですが、どっちもすごく面白い映画です。

 ちょっとだけ、その話をします。
SWシリーズと同じく、「超有名作品で、(怒らせたらめんどくさい)熱狂的なファンがいる映画の新作」という条件で撮影された『GODZILLA ゴジラ』と突き合わせると、『ローグワン』の面白さにも迫れる気がします。

ギャレス版ゴジラ(通称ギャレゴジ)を見たとき、私は「これを超えるゴジラは撮れないんじゃないか」とおもいました。結果的に邦画ゴジラの最新作『シン・ゴジラ』が斜め右上にすっとぶ形で凌駕してくれましたが、それほどギャレゴジはかっこよかったのです。ゴジラ映画のなんたるかを知り尽くした監督が撮るゴジラ。マグロ食ってる巨大イグアナとはわけが違いました(あれはあれで面白いんですけどね。ゴジラとさえ名乗ってなければ。)

ギャレゴジには、「核兵器使用の是非」を問わせたシーンがありました。広島の原爆投下時刻に針がとまった時計を見せて、日本の科学者がアメリカの軍人に対し原爆の利用を諫める、というほんの数十秒のシーン。アメリカの資本で撮られた映画で、原爆投下について触れることは、映画の興行成績に影響を及ぼす恐れすらあるにもかかわらず、です。

ゴジラは核廃棄物から誕生した生物です。根底には「核を使う人間への怒り」が込められていて、だからゴジラは、核の恐怖を忘れた大都市を襲います。監督は、そのことをよく知っているから、あのワンシーンが生まれたのだとおもいます。

さて、では『ローグワン』です。 観た直後の感想は、
「ああそうか、これがスター・ウォーズだったのか」
でした。  今年の初めに、「正史」の最新作『ep7.フォースの覚醒』(監督は『アルマゲドン』のJ.J.エイブラムス)を観たとき、わたしは「そうそう、これがスター・ウォーズだよね」と思いました。ep4~6のオマージュが大量に込められた、スター・ウォーズのおいしいところがてんこ盛りになった映画でした。

「正史」の作品群では、主人公たちの動向には関係なく、「だれかが撃たれて、近くにいた友人が慟哭する」みたいなシーンがたまに映ります。「外伝」の『ローグワン』は、そのワンシーンにめいっぱいフォーカスしたような映画でした。

主要キャラクターは全員「正史」には一切絡んできません。英雄もいない。ジェダイがいないので誰もフォースを使わない。でも、当たり前ですが、「正史」の影には彼らのような「rogue(=ならず者)」達がたくさんいた。主人公たちが人間離れした活躍を繰り広げているとき、爆風に焼かれ、胸を撃ち抜かれ、友を殺された名もなき者たち。

ハリウッド資本のゴジラ映画から「原爆」を抜かなかった監督は、スペース・オペラ超大作のスター・ウォーズで「戦争」を描いた気がします。SW正史では大きく描かれない、名もなき愛すべきならず者たちの、おびただしい、時に無意味にも見えるほどに呆気ない死。

 『ローグワン』全編にわたって何度も繰り返されるテーマは、「メッセージを次のひとへと託すこと」でした。父はパイロットにメッセージを託す。メッセージを受け取った子は協力者へ届ける。協力者たちはさらにその協力者へ――そして数えきれないほどの犠牲を出しながら、メッセージはしかるべき者のところへと届けられる。

帝国の旗がひるがえろうと、見えないフリをすればいい。


――でも何かがおかしい。間違っている。


何かが変われば、この世はもっと、自分はもっと、よりよくなるはずだ。

彼らの命がけのバトンリレーの根底には常に「希望」があります。よりよき世の中への希望でもあるし、自分達が死んでも、メッセージを託した次の誰かへの、新しい世界に届けてほしいという切なる願いなのだとおもいます。支配者は彼らを「反乱軍」や「ならず者」と呼ぶ。でも彼ら自身は「革命軍」や「レジスタンス」と名乗るのです。

彼らのあいだには、たとえ自分が死んだとしても、誰かに受け継がれてゆく大儀がある。

という、しちめんどくさい話はおいといて、ですね。

SWのすばらしさを知り尽くした監督だからこそ、唯一にして最高のライトセーバーの使い方ができたとおもいます。閉鎖空間の暗闇で光る赤いライトセーバー。絶望的なシーンだったけれど、あれほんッッと、かっこよかった。あと、ハイパースペースを経て出現する機体のかっこよさはシリーズ中一番だった。

総括すると、

「そういえばep.3~4の間ってジェダイいないじゃん!どうすんだ!」

と考える間もなく終わった二時間半でした。  


ありがとうギャレス...

北野勇作『かめくん』

人間みたいに本を読む。ご飯を食べる。料理もする。

でも、人間じゃない。
彼はカメだ。


北野勇作『かめくん』

 

かめくん (河出文庫)

かめくん (河出文庫)

 

 


多分そんなに遠くない未来。木星らへんで戦争が起こっている。大阪によく似た都市のどこかの商店街の古いアパートに、カメが越してくる。リンゴが好き。するめが好き。図書館で本や映画を借りる。名前はないけど、カメに似せて作った機械なので「模造亀(レプリカメ)」あるいは「機械亀(メカメ)」ともいう。カメなので「かめくん」とも呼ばれてる。

機械なのに、昔のことは覚えてない。

でも、たまに夢見るように古いメモリーがよみがえる。

 

北野勇作作品に人間はあまり登場しない。他作品の『きつねのつき』『カメリ』でもそうだけど、「人間のフリをしているなにものか」がたくさん出てくる。たいてい、なにかが破壊されたあとの世界で、なにかが決定的に失われている。本を開いて一ページ目から伝わってくるのは、何かが欠けてしまった感覚だ(そしてそれでもなお、日々は続く。)

だのに、生々しい。その世界で生きているものは人ではない、いきものですらないものたちばかりなのに、彼らが「食う」とか「寝る」とかすると、そういったことが、すごくリアルで気持ち悪いものとして立ち上がってくる。物語の登場人物たちが「食う」ときは、生命を断ち切り肉汁をしたたらせて貪り食うし、「寝る」といったらそれは死ぬのに近い。

「ほんもの」のない世界で「ほんもの」のフリをするかめくんたちが愛おしい。歌舞伎の女形がつやっぽかったり、宝塚の男役がかっこいいのに似ている。あれは男が女を、女が男を演じることによる「この世ならざるものの美しさ」だから、それと同じように、にせもののいきものがほんもののフリをしている『かめくん』的世界は、ほんものと同じくらいかそれ以上に愛おしくみえる。

 

本を読んだり映画を観たりして、かめくんは「にんげん」を知ろうとしているようでもある。

それは、憧れているみたいに見える。

 

「ほんもの」のない世界で、かめくんが、リンゴが好き、本を読むのが好き、とぽつぽつ考えるとき、その「好き」のところには、ちっちゃく「ほんもの」が宿ってる。

 

と、おもいたい。

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

見終えた直後の私の感想。

「...で?」

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

 

 

 

見終えた後の疲労感がものすごい映画でした。終わった!やっと終わった!うおおおお!みたいな。地獄で狂気じみた100分が終わったのでほっとする感じ。おまえらのやりあいはもう見てられねぇ、ってなりました。

 

でもこれ、すごい評判だった映画なんだよなあ...。

私はもうしばらく見たくないなあ...。

 

筋はものすごく単純で、音大に入った主人公がスパルタ教師のもとで頑張ってドラム叩く話。といったら、「なるほど、スポコン漫画の音楽版ね。『のだめ』とか『ピアノの森』っぽいのかな」って気がするのですが、全くそんなことありませんでした。

なぜなら...この映画、真に音楽好きな人間がひとりもでてこない!

それどころか音楽演奏シーンがちっとも楽しそうじゃない!

 

お、音楽を取り扱った映画なのに!!

 

主人公は、人生挫折した父親をみて「ああはなるまい」と思い夢を追いかけ一流音大に進学しましたが、歳の近い親戚(教育大でラグビーとかやってて、わかりやすく”優秀”な人々)とかと比べられて嫉妬。音大では、「最高のバンド」を作るためなら暴言も暴力も辞さない教師のもとで掌から血がしたたるまでドラムをたたきまくる日々を過ごします。教師は生徒たちを追い詰めまくる。授業中に椅子を投げる。ホメ殺しては奈落の底に突き落とす。メンバーの前で恥をかかせる。後輩に嫉妬させる。その他いろいろ。結局生徒は音楽をあきらめ、教師は学校を追われますが、その後ジャズバーで再会することに...みたいな話。

 

主人公がドラムを叩いて血を流す姿は「必死にドラムを練習している」のではなく、自傷行為に近いし、教師が椅子を投げてる姿は「そんなんで本当にチャーリー・パーカーが排出されたら世話ねぇよ」って感じだ。

要はこれ、「音楽映画」という枠には一応収まっているみたいに見えて、全く音楽映画していない。全編通してやってるのは、凡人同士の意地の張り合い。だって優秀な演奏家をつくるのに必要なのは、嫉妬や怒りの感情を巻き起こすことではないはずだし、ドラムは血が出るほど叩く必要はない。

 

ラストシーンで、なんとなく、凡人二人の意地の張り合いに和解が成立したようにも見えるけど、なんだろうな...画面のこっちがわは完全無視で「いいんだよ、俺達これが気持ちいいから」ってかんじで、最後までこっちがわを引き寄せてくれないかんじがする。それに最初から最後まで、こいつら何にも変わっちゃいねぇんだよ...。

音楽を取り扱った映画で、必ずしも音楽が魅力的に描かれる必要はないし、主人公が成長する必要もない。そして見終えたあとでくったくたになろうが、凄い映画には違いない。だって、こんなふうに「音楽」を取り扱った映画がかつてあったろうか。凡人と天才を描いた『アマデウス』があるけれど...あれだってモーツァルトが音楽の神様の申し子として描かれているから凡人サリエリの悲哀が引き立つわけで。

この映画、音楽の神が見向きもしないところで音楽つかって殴りあってる。

 

「教師と生徒が音楽めっちゃ頑張る話」を期待して観たら裏切られる(私は盛大に裏切られた)ので、「凡人同士が”音楽”を武器に互いの凡人加減を殴りあう話」みたいな予備知識で見たら楽しめそうです。

あと、この映画は、監督の実体験をもとに撮られた映画、ということを知っておくと、より楽しめると思います。すごく私小説めいた感じなのは、要は監督自身、音楽を楽しんでなかったということなのかもしれない。

 

私の場合、ユーモアがもうちょっとあったら楽しめたかも、と思う。

でも、監督はユーモアを入れられない。

それだけ、まだこの体験からは血が滴っているということだとおもう。

 

 

ピート・ドクター監督、ロニー・デル・カルメン監督 『インサイドヘッド』

「大丈夫、あなたがだいすきだよ」と言ってくれるものは、どんなときも自分の内側にある。

 

ピート・ドクター監督、ロニー・デル・カルメン監督
『インサイドヘッド』(2015,アメリカ映画)

 

 

よかった。面白かった。結構泣いた。私も人の心持ってた(くどい)ピクサーの必殺技「とことんしらべる」と「視覚化して伝える」がいかんなく発揮されていて、たとえば意識の門番やら明晰夢の作られ方といったシーンが何の説明もなくさらっと出てくる、最高に変で最高に楽しい映画でした。フロイト読みたい。

一か所、3D的だったキャラクターたちがポリゴンっぽくなり、二次元になり、一次元になり...という、なんか面白いけど意味がわからんシーンがありまして、調べたところ、「抽象思考のプロセスの視覚化」だったことが判明しました。

 

どういうことなのピクサー。天才なの?

 

さて、舞台は11歳の女の子・ライリーの頭の中。脳の司令塔に常駐している、感情をコントロールする5つの感情、ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミたちが、ライリーの転校という大イベントをきっかけにして、パニックになる様子が描かれます。

ってこれ、すごい変な設定。

普通、「ライリーの転校」がテーマの映画で描かれるのはライリーが戸惑う様子のはずだ。たとえば、クラスのやんちゃな女子にいじめられるとか。でも、この映画ではそういうことは起こらない。ライリーの感情たちが、ライリーのことを思ってそれぞれなんとかしようと脳みその中を動き回るだけだ。

 

感情たちの行動や、脳内にあるいろんな施設は見ているだけでも楽しい。でも、終盤ボロボロ泣けてくるのは、これが全部「ライリーの頭の中」で起こってるってことに気付いたときだ。

どれだけ落ち込もうが、どんなしんどい目に遭おうが、数えきれないほどのたのしい、かなしい、さまざまな記憶があって、むかし側にいてくれた架空の友達がいて、それらが全部私の中にあって、今の私を動かしている。

ただ、私がおもいだせないだけで。

 

劇中、感情たちが何度も朗らかに宣言するのは、

 

「わたしたちは皆、ライリーがだいすき!」

 

ってことだ。つまりそれは、ライリーは「ライリー」が好きってことだ。

誰が何と言おうとそうなのだ。

 

馬鹿みたいでも、それって最強じゃないだろうか。

 

デヴィッド・エアー監督『フューリー』

と、いうわけで、予告通り見た。

 

デヴィッド・エアー監督『フューリー』(2014,アメリカ)

 

 

第二次世界大戦末期、アメリカの戦車(低火力・紙装甲)に乗り込みドイツ軍と戦う兵士5人の話。

せっかく『ガールズ・パンツァー劇場版』(※くどいようだがパンツ映画ではない)を見たことだし、前から気になっていた戦車&戦争映画も見ておこうと思った次第です。

ガルパンを先に見ていたおかげで、

「なるほどこれがティーガーか」
「戦車のタイヤは履帯っていうのか」
「主砲は88mm!」

といった、戦車的知識面をいろいろ楽しめました。

 

※以下、ネタバレ。

 

ところで、前線へ戦いにいく系の”戦争映画”には「最も若い者は生きて帰る」という鉄則のようなものがあります。『七人の侍』とか『プライベート・ライアン』とか『永遠のゼロ』あたりもそうですが、「主人公より若い者」や「新入り」は主人公が死ぬ場合でも生きて帰れることが多い。

『フューリー』でも若者は生きて帰れます。理由は単純で、

 

「俺たちはこうして死んだということを、若いお前(=この映画を見た人)は覚えておいてくれ」

 

ということなのだろう、とおもいます。

そういう映画は多くの場合「これが戦争の真実である」とでも言いたげなふうに語られます。特に、いわゆる泣ける系の「真実を語りたがる系の戦争映画」でよく使われる手法のひとつに、主人公の美化があります。

たとえばアメリカ映画の場合、制圧した街のドイツ人女性に手を出そうとする同僚をぶちのめす、みたいな描写がなされたり、敵国の女の子と運命の恋に落ちたり。「酷いこともしたけれど、俺達だって人間だ」みたいなことを、雄弁に語りたがる。

ところがこの『フューリー』、確かに新入りは生き延びるけれど、ちょっと変なところがあります。

新入りが泣きわめいたり、銃を握るのをためらう描写だったり、敵国女性との交流だったり、メンバー同士の友情だったり、お約束的なものは描かれます。でも、決定的に感情移入させてくれない。敵国女性との関係は、構築される前に同じ戦車に乗る仲間によって打ち砕かれる。異文化コミュニケーションは成り立たない。

見ているこっちは「そうだよね、極限状態だからこうしているだけで、環境さえ許せば君たちだってほんとはいいやつだよね」と思いたいのに、そうさせてくれない。

 

終盤、新入りに与えられるニックネームは「マシン」でした。酒も飲める。敵国の女もヤれる。人も殺せる。だからお前は機械=マシンだ。

名前を付与されたことで、やっと若手が「一人前」として認めてもらったわけですが、同時にこんな風にも言っている気がします。

 

「俺たちは機械だ」

 

だから、ラストシーンを見たとき、私は本当に一瞬意味が分かりませんでした。ただ一人生き延びた若者は、弾も尽き、武器も持たない状態で、敵兵に見つかってしまいます。でも、敵兵はなにもせず、ただニヤリと笑って去る。

 

ええっ、なぜ?!

そこは撃つでしょ。主人公たち今までやってきたように。

だってこの映画、今までそういう映画だったでしょ?

 

その理由がいわゆる「人道的配慮」とか、もっとざっくり「親切」とかいった、人としてのすごくまっとうなものだ、ということに気づく。

そんな映画。