まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

虐待のニュースをみて考えたこと

 

まず、結論から言うと、Twitterでみかけた「虐待をした親が一番悪いはずなのに、なんでも現政権の批判材料にしたがるのはどうかとおもう」という趣旨の文章が許せなかった。

それは、政権批判をする人を批判したいがために、今回の事件を利用しているだけではないか。こういう批判の仕方、「批判する行為そのものへの批判」は、自分のことばももたないくせに、ちょっと斜めからモノを言いたいだけの人がすることではないのか。

本当に批判したいなら、虐待を政治のせいにすることがどういう点でおかしいといえるのか、具体的に挙げるべきではないのか。

私は、どちらかというと、「虐待は社会的な問題」と考えている。社会がこれほど不寛容になってしまったのは、積もり積もった政策の、慣れの果てでもあるとおもう。そうなると、政策を打ち立てたのは3年しか政権を握れなかった民主党よりも、自民党のほうなのだろう。民主党がいい政策をとっていたとも思わないけど、単純に、社会の空気を醸造するのには3年じゃ足りなさすぎる。だから、自民党が批判されうるのもまぁ納得する。

ただ、今回の虐待事件を受けて、現政権批判をしているまとまった文章を見たことがないので、この「現政権批判をするな」という批判自体、的外れな可能性がある、ともおもっている。

 

まあ、そこはどうでもいい。

 

以下からは、「虐待は社会的な事象である」ということについて、私なりに考えたことを書いてみる。

そもそも私は私自身の意思の強さをあんまり信用していない。私が「こうしたい」とおもってやっていることは、この世界の”何か”に、「そうしなければならない」とおもわされていることのほうが多いと思っている。

 

我が子を虐待するような人たちが、人の心をもたない極悪人なのではないのだろう。ただ、彼らは、こう考えたはずだ。

 

「子どももスリムな体型がかっこいい」

「小さい時から字が書けた方がいい」

「親のいう事を聞くほうがいい」

「電車の中では静かなほうがいい」

「遊ばず勉強する子のほうがいい」

「お手伝いをよくするほうがいい」

 

上記に挙げたものは全部、今後私もおこなうであろう”我が子へのしつけ”と、すごく隣接している。

糖尿病は「デブで不摂生な人の病気」であり、肺がんは「タバコをばかすか吸った報い」である、とみなされがちなように、親のいうことをきかない子どもの存在は「教育の失敗」とみなされる。

本屋に行けば、いかにすれば教育に「成功」できるかについて書かれた本が並んでいる。この世界の”何か”は、親の教育の「成功」をもとめている。彼らはそのことを必要以上に内面化してしまった。しかも、彼らはある程度、子どもの教育には「成功」したのだとおもう。死んでしまったあの子は、親のいう事をよく聞き、ひらがなも書けて、意思表示のために文章を組み立てて長い手紙を書ける、とてつもなく「いい子」だったのだから。

 

私は「彼らのようはなりたくない」とおもっている。でも、どういうことがきっかけで、私が新たな「彼ら」になるかもわからない。可能性がないとはいえない。もし、そうなってしまったとき、やめようとおもってやめられるだろうか。これはよくないことだと思えるだろうか。この世界の”何か”からの要請は、私の意思よりずっと強い。

 

この世界の”何か”とは、電車の中で泣き叫ぶ子どもの側でなすすべもなくただ立っている親への冷たいまなざしに代表されるものだとおもう。泣き叫ぶ子の傍らに立つ親は、すまなそうにするしぐさを求められている。「私の教育が至らないせいで皆々様にご迷惑をおかけしまして」と社会にむけて頭をたれるのが、まっとうな親の姿だと思われている。優秀な親じゃなくてもいいさ、とおもえるだろうか。電車の中で向けられる冷たい視線、Twitterに飛び交う罵詈雑言、そういうものを全く気にせずにいられるだろうか。わたしは頭を垂れる側だとおもう。でもそれは「まっとう」なのか? それが「まっとう」だとはおもいたくない。

 

社会のせいだとか、政治が悪いとか、短絡的に言うつもりはない。

社会の不寛容は想像力の欠如が生む。親の責任だというのは簡単だ。でも、虐待という事象には、個人の意思よりも、もっとずっと社会的なものが絡んでいる。「すぐに社会や政治のせいにするな」と言う人は、あまりにも想像力がなさ過ぎる。

 

私は、子どもがスーパーで暴れてようが、「おーおー、暴れておるわ」と大目にみてくれる社会ならばありがたいとおもう。もちろん、商品ひっくり返すとか盗むとかしたら怒らなくてはいけないけれど(器物損壊で窃盗という名の犯罪だからだ)子どもが子ども的に泣いたりわめいたりする分には、子どものうちしかできないのだから別にいいんじゃないの、と思ってくれたらいいのにな、とおもう。子どもが泣き止まないのは子どもの都合で、私のせいではないと思えたら、私のようなプレ親はじめ、たくさんのまっとうなおとなは楽になるだろうにな、とおもう。

【閑話休題】たぎるアニソン打線

録画しておいた『BLACKLAGOON』見た後、「たぎるアニソンで打線組もうぜ!」って話になり、オットーと小一時間ねばって考えた結果が以下の通りです。ご収査下さい。

 

1.レフト:バリバリ最強No.1/地獄先生ぬ~べ~

2.ショート:シュガーソングとビターステップ/血界戦線

3.一塁:胸がドキドキ/名探偵コナン

4.投手:Over SoulNorthern Lights/シャーマンキング

5.二塁:Ghost Sweeper/GS美神

6.三塁:SIX SHAME FACES~今夜も最高!!!!!!~/おそ松さん

7.ライト:シリウス/キルラキル

8.キャッチャー:有頂天人生/有頂天家族

9.センター:TANK!/カウボーイビバップ

 

入場行進曲

 晴れてハレルヤ/魔法陣グルグル(1994)

 

ベンチ

 空色デイズ/天元突破グレンラガン

 紅蓮の弓矢/進撃の巨人

 

応援歌

 ようこそジャパリパークへ/けものフレンズ

 ハレ晴レユカイ/涼宮ハルヒの憂鬱

 

CMの時に流れるやつ

 めざせポケモンマスター/ポケットモンスター

 プリズム/電脳コイル

 Trip Trip Trip/魔法陣グルグル(2017)

 

趣味と年齢が如実に表現されまくったできばえとなりました。ベンチその他が強すぎる。

 

ちなみに四番が2曲ありますが、審査の結果、「こいつら魂の双子で選びようがないから2曲まとめて四番ってことで」となりました。林原めぐみ強い。

米林宏昌監督『思い出のマーニー』

劇場公開時に観たオットーに感想を聞くと、「背景がきれいだった」と返したこの作品。私自身、同じ評価を『ゲド戦記』『借りぐらしのアリエッティ』で下したことがあるので、前評判からしてよろしくなかったといえよう。

うん、それは認める。

でもそれ以上に、かなりヤバイ映画だった。

 

思い出のマーニー
米林宏昌監督/スタジオジブリ、2014年)

 

 

思い出のマーニー [DVD]
 

 

 

 

※以下、かつてなくディスり倒します

主人公・杏奈がヤバすぎてヤバい。教師に絵を見てもらえなくて喘息悪化しちゃうのがかまってちゃんすぎてヤバイ。親切にしてくれた子に平気で「ふとっちょぶた」とかあだ名つけちゃうのヤバイ。心開けない理由が終盤までわからなさ過ぎてヤバイ。理由が分かったところで前半の態度がヤバすぎて挽回できずヤバイ。明らかに誰もいない家を見て「誰もいないのね」とか言っちゃうの説明台詞すぎてヤバイ。夕方5時から遊びにでかけて夜までかえってこないとヤバイ。しょっちゅう泥まみれで道端に倒れてるのヤバイ。

全体的に杏奈がサイコパスっぽくてヤバイ。

ヤバすぎて、「映画的にこういう感想を抱かせたいのであろうな」というシーンや台詞は多々用意されているにもかかわらず、そういうもろもろに殆ど一切感情移入ができず、アニメ映画的な見どころもなく、なんかボーっとしてる間に終わった。

ヤバイ。

ヤバみはまだまだある。ヤバイ。

映画の冒頭、杏奈は友人たちの輪から離れて一人で絵を描いています。そこに先生が来て「絵をみせて」といわれ、彼女は照れて頬を赤らめながら絵をみせようとします。杏奈は「『見せて』と言ってきたのが学校生活における最高権力者だから」見せたように見えるのです。おそらく同級生が同じように「見せて」といってきても、彼女は見せなかったはずですし、同級生にはエグいあだ名をつけているはず。

あるいはマーニーとの出会い。杏奈はマーニーに出会って5秒で心惹かれます。でも、同じく唐突な出会いだった「ふとっちょぶた」ちゃんとは最後まで友達にはなれません。理屈では説明できない縁という以上に、マーニーが「金髪碧眼の美少女だから」一目で好きになったと思われるのです。目の色の話題がちょろっとでてきたくらいで、マーニーが金髪碧眼であるべき理由がないし。

ほんとうに、この「ふとっちょぶた」ちゃんの扱いのひどさには、「デブスとは友達になれなくても、美人のマーニーならなれる」とでも言いたいのか、とおもってしまった。そして年頃の女の子に「ふとっちょぶた」などと面と向かって言った罪は、エンドロール程度の和解では許されないとおもう。真に許されるべきなのはおまえだ杏奈。

親切にしてくれる子に対しても心を閉ざしてしまうというのにしても、もうすこし気持ちよく、杏奈を好きになれる見せ方ができたはず。たとえば杏奈も努力しているとかがあれば。それか、もしかして、杏奈とマーニーが気持ちよく可愛く動いてりゃ他はどうでもいいのか、この映画?

一応、ええ話ではあるんです。自分で閉ざしたこころをもう一度開く話、トラウマと向き合う話、自分のルーツをたどることで外の世界を見つめる話。私が挙げた程度の杏奈のヤバみにも、一応、説明はつけられる。

が、だからどうだというのだ。

おもんない。アニメとして単純におもんない。

あ、背景は綺麗でした(※結論)

椎名高志『GS美神 極楽大作戦!!』

ルシオラ...

 

きっ...

 

きっ...

 

きさまァァァァァァァァァァァァ!!!

なにさまのつもりじゃワレェェェェェェェェ!!!

 

椎名高志GS美神 極楽大作戦!!』

 

GS美神 極楽大作戦!! 1 (小学館文庫 しH 7)

GS美神 極楽大作戦!! 1 (小学館文庫 しH 7)

 

 

ええ、オットーの本棚からこそこそ持ち出しては夢中で読みふけったこの一週間、そりゃあもう、楽しかったですよ。小学生のころ、夏休みのたびに「朝のこども劇場」でアニメを見ていたのを思い出しましたよ。職場の廊下で「だいたん~な~わたしの~わざのなか~」とか口ずさむくらいテンションあがりまくってましたよ。

 

前半のドタバタコメディはいろいろな作品のオマージュ満載で探すのが楽しいし(横島くんのおとうちゃんが来る回の扉絵がスターウォーズで笑った)中盤から徐々に”凡人”だったはずの横島くんが強くなっていくのにはわくわくした。それと同時に美神さんとのつながりが深く濃ゆくなっていくのも楽しかった。おキヌちゃんやマリアは漫画連載から25年がたつ今もなお可愛いし、アニメには登場しなかったシロや玉藻たちが暴れまわるのはすごくすごーく楽しかった。

 

だのに!!!!!

 

ぽっと出の薄幸の美少女(主の命令に背けない敵キャラ・寿命設定・自己犠牲精神の3大特典つき)においしいとこぜーーーんぶもっていかれましたでーーー!!!

 

アシュタロス編...たしかに「エエ話」ではあったけれど。けれど!!!

 

横島くんの能力インフレ状態も終わり、いきなり日常編がかえってきたときの安心感っが最高でした。しかも今度はおキヌちゃんだけでなく、シロも玉藻ちゃんもいる。ひのめちゃんのその後も気になる。彼女はさぞや美人さんになるのであろうなあ。

横島くんと美神さんがその後どうなったのか、ルシオラとは結局どうなのか、本編で一切語られなくなったのは確かにすこし残念ではあるけれど、それはそれで「深い絆」の体現とも読める。でも「ルシオラと恋に落ちることによって自分に自信がついた」あとの横島くんの煩悩暴走っぷりが鳴りを潜めたのはちょっと残念、いやそれが普通なはずなのだけど。

 

ハチャメチャな人々の「いつものかんじ」が続くっていうのが、GS美神最大の魅力だったとおもう。

 

はああああ...

読み終わってしまったよ...

さみしいなあ。

 

でも、楽しかったなあ。 夢中で読んだ。

久しぶりにそういう漫画を読んだ気がする(※個人的には『封神演義』以来)

西谷弘監督『昼顔』

暗闇にしずむちいさな駅に停車した電車から、二人の男女が降りてくる。
踏切をこえて岐路へつく彼らの背後で、走り去る電車の車窓のちいさくて仄かな灯りが遠ざかる。

灯りはいつも遠ざかる。

届きそうで、届かない。

 

『昼顔』(監督・西谷弘、東宝/2017年)

 

そう、これは、2014年、木曜22時のフジテレビに旋風を巻き起こした伝説のダブル不倫ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』の劇場版なのです。ただし、タイトルには”劇場版”と表記されていません。内容も、ドラマ版の出来事を知らなくても楽しめます。吉瀬美智子も出ない。そしてわざわざ”劇場版”と銘打つ必要のないほどの映画でした。

 

トーリーは「不倫モノ」としては鉄板で、映画の前評判をかるく聞くだけである程度エンディングの想像はつきます。オチを予感しつつも飽きずに楽しめたのは、画面が観ていてとても面白いせいだとおもいます。

 

たとえば、主人公が不倫相手の妻の家に出向いたときにカンカンに沸いているお湯や、得体のしれない白い粉末の入った透明なガラス容器、背後でスラリと並ぶ大小さまざまな包丁には、胃がぎゅーっとなりました。何気ない台所の風景が凶行現場にしか見えない。伊藤歩が背中で手を組んで立っているだけでその手に凶器を握ってるんじゃないかと疑わざるをえない。

ホラーかとおもった。怖かった(※誉め言葉)

 

不倫というと、夫のいない時間を見計らって愛人を家に招き入れ夫と眠るベッドで快楽をほしいままにする、とか、誰もいない深夜のオフィスの事務机の上で、あるいは屋上で、みたいなものを想像しがちです。あれって全部、「ちゃんとしているべき場所」での”不貞”行為だから燃える、みたいな演出になっていますが、『昼顔』の不倫はそういうのではない。主人公と不倫相手の関係は実にプラトニックです。ホタル探しを無言でたのしみ、手をつなぐこともしなません。だがそんな「プラトニック(=精神的)」なものであるからこそ、逆に燃えます。

 

法的に誰か別のひとと夫婦であろうとも、頭の中まで効力はおよばない。「夫ではないひとを愛したかどで罰をうけた」と呟く主人公は、不倫が社会的な悪だと認識しながらも、”でも、それのなにがわるいのか?”と言わんばかりに、再会を「法的に」禁じられたかつての不倫相手に接近します。

映画版は特に、法的な夫婦に真っ向から喧嘩を売っている気がする。

不倫が社会的に罰せられるのは、”一夫一妻制なる社会制度に反する行為”だからであり、多分それしかない。裏を返せば、「不倫が容認されている社会であれば罪ではない」ということでもあります。

(※ただし、当然ですが、不倫した人は不倫された人に怒られない、不倫された人は傷かない、というわけではありません。恋愛は他者とのあいだに序列をつける行為です。自分より優位に立つ他者が許せない気持ちは、どんな社会にも存在するとおもいます。)

 

社会的には許されない恋をする闇の中で、淡い光に手を伸ばし続ける。咲いては消える打ち上げ花火のように、そこにあるかとおもえば儚く消えていくものを追い求める。

映画を観ると、きっとどんな人でも、不倫している主人公を応援せざるをえなくなる。「婚姻」という社会的正しさに守られている本妻より、闇の底から何度でも這い上がる主人公のほうが、どうみても切実に生きている。

――たとえ彼女が追いかけ続けたのが、光などではなく、ただの「影」だったとしても。

 

法的な夫婦に喧嘩を売り、闇の底から這いあがり続ける女性を描いた作品として、あのラストは当然だとおもいました。なんしか、思ってた以上に、すごい映画だった。ドラマの劇場版、と、なめてかかってごめんなさい。

 

なんか思いがけず長くなってしまったなあ。

 

でも最後にもう一言。

 

映画では、百葉箱が印象的に登場します。百葉箱の中は常に一定の温度が保たれています。静かな川辺にそっと設置された古ぼけた百葉箱は、主人公たちがこの映画で得ようとした、静かでささやかな生活のようにも思われます。

そのなかに人知れず隠された美しいもの、それはたしかに「ある」ということが、この映画の希望だったのではないかとおもいます。

大瀧純子『女、今日も仕事する』

大学をでてみたはいいけれど、就職してみりゃ出世には格差がありあり見える。結婚、妊娠、出産とくれば仕事を手放して当たり前だ。そして30歳を超えてからの再就職は簡単なことではない。

 

とかく、女の仕事はやっかいだ。

それでも、女はきょうも仕事する。

 

大瀧純子『女、今日も仕事する』(ミシマ社、2015年)

 

女、今日も仕事する

女、今日も仕事する

 

 

 

現在、会社の社長を務める大瀧さんの、今までのはたらきざまが綴られている本。本文もさることながら、帯のことばが最高です。

 

”「ワークライフバランス」「自己実現」「バリキャリ」…
 どれもピンとこない女性たちへ”

 

この三つの「ピンとこない」ことばに通じるのは、どれも、自分自身の選択で解決できる問題のように感じられることだとおもいます。

でも、そんなことってあるだろうか。

ワークとライフを分けて考えることはできるだろうか。会社のなかで自分のやりたい仕事をすることや、キャリアプランは、自分自身のちからでどうにかなることだろうか。「女」に限らず男性にすら困難ではなかろうか?

当たり前だけれど、私の人生には不確定要素が山のようにあり、その偶然の積み重ねによって今の私を私たらしめている。それに、たとえ何かを選択できたとして、自分の選択にその後も100%納得し、責任を負い続けることはできるだろうか。

きっと無理だし、そういう生き方はしんどいとおもう。

やらざるを得ないことは山ほどあって、やりたいことができるわけじゃない。だいたい、それが「ほんとうにやりたいこと」かどうか自分にすらわからない。それでも、それらはどこかで今後の糧になるかもしれない。

 

でも別にならなくたって構わない。

 

大事なのはそこじゃない。

 

山のような「やらざるを得ないこと」のなかを、ちょっとだけ、前に向かって進む。その時のじぶんができる最善の道を、間違ったと判断したら引き返すことも含め、選ぶ。

 

読み終えた後、「今日も仕事する」ってタイトルがじんわり沁みる。わたしたちはみんな「仕事している」のだ。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

姿を見るとぼーっとする。何度も声を思い出す。
一緒に飲んだラムネの味を忘れられない。

そういうものを全部ひっくるめて「あのひとが好き」だというのなら、「好き」とは何と頼りないのだろう。

 

森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』(2006年、角川書店

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
 

 

ところで、むかしよく見たドラマでは、物語も中盤を過ぎれば、おもいあう男女はその「おもい」自体に疑問を抱いたりしなかった。自分は彼/彼女が好きだ。それが、第三者(恋敵、社会的圧力など)の介入により、かんたんには「好き」でいられなくなる。その結果、さらに「好き」になっていく。

 

好きさ加減が勢いあまって、電車と並走して坂道駆け上ったりしちゃう。

すげーなあ、恋。

 

でも、最近のドラマは少し違ってきたらしい。社会現象にもなった『逃げ恥』では、男女は既に『結婚』している。むかしのドラマでは、結婚とは「好き」あったもの同士がおこなうべきものだったはずなのだけれど、そうではなくなっているらしい(※観てない)

『逃げ恥』しかり、『夜は短し~』しかり、何度も繰り返される問いとは、

 

「わたしのこれは、恋だろうか?」

 

なにをしたら「恋」なのか。肉体が科学的にどういう状態になったら「恋してる」と呼んでいいのか。よく知られているように、そこには答えがない。なんかそういう気分、としか言いようがない。だから、『夜は短し~』の先輩は怯えている。自分が「彼女」を好きだったのは、勘違いだったのかもしれない。妄想だったのかもしれない。これは恋ではなかったかもしれない、と。

 

小説を読むのは「紙についたちっちゃいインクの染みを眺めているだけ」だし、映画を見るのは「白い幕のうえで光の粒が動いているのを見ているだけ」だ。全部、自分が勝手に物語として受け止めただけ――
でも、それでも、”ここで出遭った”ことだけを頼りに、ありもしない赤い糸の綱渡りを一歩踏み出す。だって、そうすることでしか、自分以外の”他者”とかかわることはできない。

 

普通の星の下に生まれ 普通の星の下を歩き

普通の町で君と出会って 特別な恋をする

(byブルーハーツ

 

出遭った君も普通の人だし、自分だってそうだし、別に自分たちでなくてもよかった、いくらでも置き換えは可能なのだという予感におびえながら、「でも、それでも」ともごもごするから、『先輩』の片思いは愛おしいのだとおもう。