まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

西谷弘監督『昼顔』

暗闇にしずむちいさな駅に停車した電車から、二人の男女が降りてくる。
踏切をこえて岐路へつく彼らの背後で、走り去る電車の車窓のちいさくて仄かな灯りが遠ざかる。

灯りはいつも遠ざかる。

届きそうで、届かない。

 

『昼顔』(監督・西谷弘、東宝/2017年)

 

そう、これは、2014年、木曜22時のフジテレビに旋風を巻き起こした伝説のダブル不倫ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』の劇場版なのです。ただし、タイトルには”劇場版”と表記されていません。内容も、ドラマ版の出来事を知らなくても楽しめます。吉瀬美智子も出ない。そしてわざわざ”劇場版”と銘打つ必要のないほどの映画でした。

 

トーリーは「不倫モノ」としては鉄板で、映画の前評判をかるく聞くだけである程度エンディングの想像はつきます。オチを予感しつつも飽きずに楽しめたのは、画面が観ていてとても面白いせいだとおもいます。

 

たとえば、主人公が不倫相手の妻の家に出向いたときにカンカンに沸いているお湯や、得体のしれない白い粉末の入った透明なガラス容器、背後でスラリと並ぶ大小さまざまな包丁には、胃がぎゅーっとなりました。何気ない台所の風景が凶行現場にしか見えない。伊藤歩が背中で手を組んで立っているだけでその手に凶器を握ってるんじゃないかと疑わざるをえない。

ホラーかとおもった。怖かった(※誉め言葉)

 

不倫というと、夫のいない時間を見計らって愛人を家に招き入れ夫と眠るベッドで快楽をほしいままにする、とか、誰もいない深夜のオフィスの事務机の上で、あるいは屋上で、みたいなものを想像しがちです。あれって全部、「ちゃんとしているべき場所」での”不貞”行為だから燃える、みたいな演出になっていますが、『昼顔』の不倫はそういうのではない。主人公と不倫相手の関係は実にプラトニックです。ホタル探しを無言でたのしみ、手をつなぐこともしなません。だがそんな「プラトニック(=精神的)」なものであるからこそ、逆に燃えます。

 

法的に誰か別のひとと夫婦であろうとも、頭の中まで効力はおよばない。「夫ではないひとを愛したかどで罰をうけた」と呟く主人公は、不倫が社会的な悪だと認識しながらも、”でも、それのなにがわるいのか?”と言わんばかりに、再会を「法的に」禁じられたかつての不倫相手に接近します。

映画版は特に、法的な夫婦に真っ向から喧嘩を売っている気がする。

不倫が社会的に罰せられるのは、”一夫一妻制なる社会制度に反する行為”だからであり、多分それしかない。裏を返せば、「不倫が容認されている社会であれば罪ではない」ということでもあります。

(※ただし、当然ですが、不倫した人は不倫された人に怒られない、不倫された人は傷かない、というわけではありません。恋愛は他者とのあいだに序列をつける行為です。自分より優位に立つ他者が許せない気持ちは、どんな社会にも存在するとおもいます。)

 

社会的には許されない恋をする闇の中で、淡い光に手を伸ばし続ける。咲いては消える打ち上げ花火のように、そこにあるかとおもえば儚く消えていくものを追い求める。

映画を観ると、きっとどんな人でも、不倫している主人公を応援せざるをえなくなる。「婚姻」という社会的正しさに守られている本妻より、闇の底から何度でも這い上がる主人公のほうが、どうみても切実に生きている。

――たとえ彼女が追いかけ続けたのが、光などではなく、ただの「影」だったとしても。

 

法的な夫婦に喧嘩を売り、闇の底から這いあがり続ける女性を描いた作品として、あのラストは当然だとおもいました。なんしか、思ってた以上に、すごい映画だった。ドラマの劇場版、と、なめてかかってごめんなさい。

 

なんか思いがけず長くなってしまったなあ。

 

でも最後にもう一言。

 

映画では、百葉箱が印象的に登場します。百葉箱の中は常に一定の温度が保たれています。静かな川辺にそっと設置された古ぼけた百葉箱は、主人公たちがこの映画で得ようとした、静かでささやかな生活のようにも思われます。

そのなかに人知れず隠された美しいもの、それはたしかに「ある」ということが、この映画の希望だったのではないかとおもいます。

大瀧純子『女、今日も仕事する』

大学をでてみたはいいけれど、就職してみりゃ出世には格差がありあり見える。結婚、妊娠、出産とくれば仕事を手放して当たり前だ。そして30歳を超えてからの再就職は簡単なことではない。

 

とかく、女の仕事はやっかいだ。

それでも、女はきょうも仕事する。

 

大瀧純子『女、今日も仕事する』(ミシマ社、2015年)

 

女、今日も仕事する

女、今日も仕事する

 

 

 

現在、会社の社長を務める大瀧さんの、今までのはたらきざまが綴られている本。本文もさることながら、帯のことばが最高です。

 

”「ワークライフバランス」「自己実現」「バリキャリ」…
 どれもピンとこない女性たちへ”

 

この三つの「ピンとこない」ことばに通じるのは、どれも、自分自身の選択で解決できる問題のように感じられることだとおもいます。

でも、そんなことってあるだろうか。

ワークとライフを分けて考えることはできるだろうか。会社のなかで自分のやりたい仕事をすることや、キャリアプランは、自分自身のちからでどうにかなることだろうか。「女」に限らず男性にすら困難ではなかろうか?

当たり前だけれど、私の人生には不確定要素が山のようにあり、その偶然の積み重ねによって今の私を私たらしめている。それに、たとえ何かを選択できたとして、自分の選択にその後も100%納得し、責任を負い続けることはできるだろうか。

きっと無理だし、そういう生き方はしんどいとおもう。

やらざるを得ないことは山ほどあって、やりたいことができるわけじゃない。だいたい、それが「ほんとうにやりたいこと」かどうか自分にすらわからない。それでも、それらはどこかで今後の糧になるかもしれない。

 

でも別にならなくたって構わない。

 

大事なのはそこじゃない。

 

山のような「やらざるを得ないこと」のなかを、ちょっとだけ、前に向かって進む。その時のじぶんができる最善の道を、間違ったと判断したら引き返すことも含め、選ぶ。

 

読み終えた後、「今日も仕事する」ってタイトルがじんわり沁みる。わたしたちはみんな「仕事している」のだ。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

姿を見るとぼーっとする。何度も声を思い出す。
一緒に飲んだラムネの味を忘れられない。

そういうものを全部ひっくるめて「あのひとが好き」だというのなら、「好き」とは何と頼りないのだろう。

 

森見登美彦夜は短し歩けよ乙女』(2006年、角川書店

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
 

 

ところで、むかしよく見たドラマでは、物語も中盤を過ぎれば、おもいあう男女はその「おもい」自体に疑問を抱いたりしなかった。自分は彼/彼女が好きだ。それが、第三者(恋敵、社会的圧力など)の介入により、かんたんには「好き」でいられなくなる。その結果、さらに「好き」になっていく。

 

好きさ加減が勢いあまって、電車と並走して坂道駆け上ったりしちゃう。

すげーなあ、恋。

 

でも、最近のドラマは少し違ってきたらしい。社会現象にもなった『逃げ恥』では、男女は既に『結婚』している。むかしのドラマでは、結婚とは「好き」あったもの同士がおこなうべきものだったはずなのだけれど、そうではなくなっているらしい(※観てない)

『逃げ恥』しかり、『夜は短し~』しかり、何度も繰り返される問いとは、

 

「わたしのこれは、恋だろうか?」

 

なにをしたら「恋」なのか。肉体が科学的にどういう状態になったら「恋してる」と呼んでいいのか。よく知られているように、そこには答えがない。なんかそういう気分、としか言いようがない。だから、『夜は短し~』の先輩は怯えている。自分が「彼女」を好きだったのは、勘違いだったのかもしれない。妄想だったのかもしれない。これは恋ではなかったかもしれない、と。

 

小説を読むのは「紙についたちっちゃいインクの染みを眺めているだけ」だし、映画を見るのは「白い幕のうえで光の粒が動いているのを見ているだけ」だ。全部、自分が勝手に物語として受け止めただけ――
でも、それでも、”ここで出遭った”ことだけを頼りに、ありもしない赤い糸の綱渡りを一歩踏み出す。だって、そうすることでしか、自分以外の”他者”とかかわることはできない。

 

普通の星の下に生まれ 普通の星の下を歩き

普通の町で君と出会って 特別な恋をする

(byブルーハーツ

 

出遭った君も普通の人だし、自分だってそうだし、別に自分たちでなくてもよかった、いくらでも置き換えは可能なのだという予感におびえながら、「でも、それでも」ともごもごするから、『先輩』の片思いは愛おしいのだとおもう。

マーク・オズボーン監督『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』

「本好き」を標榜する私ではありますが、「星の王子さま」を読んだのはだいぶ大人になってからです。

マーク・オズボーン監督
『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』(2015、フランス)


高校生の時だったかなあ。行きつけの美容室の待合スペースで、一冊だけ挟まってたのです。暇つぶしに読みました。「なんか説話臭い話だなあ」と思ったきりで、特別感動することはありませんでした。

ひとがいいというものに素直に同意したくないお年頃。

いまもか。
(※以下、無駄に長いです)

さて、この映画ではそんな「星の王子さま」の世界が、紙の質感を感じる丁寧なコマどりアニメで再現されています。この質感がほんとうに素晴らしい。いつまでも観ていたくなる。原作をさほど読み込んでいない私でも、「星の王子さま」の世界がすごく愛しくなりました。

タイトルにもあるとおり、この映画は「星の王子様と”私”」の話です。もうひとりの主人公の世界はCGアニメで描かれています。こちらはフルCGのはずですが、動きがすごくコマどりっぽくて可愛いです。

主人公は「女の子」。名前はない。もうすぐ9歳になる。趣味や特技は語られず、「女の子」という記号しか与えられていません。彼女は「お母さん」と一緒に暮らしている。お母さんは激務のかたわら、女の子を「ちゃんとしたおとな」にするため日々奮闘している。分刻みのスケジュール、山のような宿題、人生に役に立つものがもらえる誕生日プレゼント...。女の子に友達はいない。だって勉強の邪魔になるから。本は問題集以外読まない。だって役に立たないから。彼女らは「これからの人生を有利にするための学校」へ行くために、直角に区切られた真っ白な街の一角に越してくる。

「お父さん」はいない。お父さんは女の子の誕生日に、毎年、ビル街に雪が舞うスノードームを送ってくるだけの存在だ。多分「お父さん」が見ているのはそんな風景だけで、9歳になる女の子へのプレゼントにもそんなものしか思いつかない。

女の子は「おとなの星」に暮らしている。「効率的で」「有意義で」「計画的で」その他いろいろ「おとなであれ」と各方面から言われる世界だ。女の子は「おとなになんかなりたくない」とおもう。
女の子はまだ9歳でこどもだけれど、こどもの在り方を忘れてしまっている。大人の世界でなんとかやっていくためには、子どもは子どもであり続けるわけにはいかないからだ。

そんな「女の子」の新しい家の隣にくらしているのが、けったいな老人だ。裏庭で飛行機のプロペラを回して壁を破壊したり、無免許運転してみたり、ケーキ屋さんに嘘ついておまけしてもらおうとしたり、とにかくいろいろ普通じゃない。街では変わり者すぎて疎遠にされている。彼は女の子に自分が書いた物語を一ページずつ手渡す。彼の飛行機が砂漠に不時着したときに出会った、羊をほしがるふしぎな男の子の物語だ。

こうして、女の子は初めて「物語」を読む。

お母さんの言う通り、こんなもの人生のなんの役にも立たない。大学入試に出てこない。株の動きも教えてくれない。字を覚えるには非効率的すぎるし、助長なところが多すぎる。

それでも、わたしたちは物語を読む。誰かとのかなしい別れをやり過ごすのに、楽しい思い出を忘れないために、時に辛く酷く厳しい人生となんとか折り合いつけるために、何が何でも必要だからだ。

映画の終盤、女の子も必要に迫られて「自分の物語」を語りだします。星の王子さまはちゃんと自分の星に帰れたのか、バラとは再会できたのか、王子はどんな「おとな」になったのか。それが知りたくて、荒唐無稽で、あり得ないことが山ほど起きる、ご都合主義の物語を作り上げます。

この映画は、単なる「星の王子さま」という作品の映像化ではなく、「星の王子さまを読んだ”私”の読書体験」の映像化でもあるのです。

ずっとこのしあわせな世界にいたい。
でもやがて、映画は終わる。こどもはおとなになる。長い別れの時が来る。
そんな苦みの余韻まで原作を踏襲した、素敵な映画。

ギャレス・エドワーズ監督 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

ギャレェェェェェェェェス!!!


ギャレェェェェェェェェス!!!

 

ギャレス・エドワーズ監督
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

 

 

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

 

 

 

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー  オリジナル・サウンドトラック

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック

 

 

この世界の片隅でギャレスへの愛を叫びたい私!


以下、叫んだ結果、ネタバレはないですがめちゃめちゃ長くなりました。

誰もが知る『スターウォーズ』シリーズは、銀河帝国の歴史を描く壮大な物語です。『エピソードXX』と名付けられた”正史”に対して、『ローグワン』は”外伝”という位置づけ。「ep4(※SWシリーズ公開第一作目)の10分前までの物語」が描かれています。外伝扱いにはなっていますが、ストーリー的には正史と地続きになっており、「ep4」で説明されていなかった物語が語られるので、一部では「ep3.9」と言われたりもしています。

 さてその「ep3.9」を撮ったひとが、ギャレス・エドワーズ。 低予算怪獣映画の傑作『モンスターズ/地球外生命体』や、あのハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』を撮った人で、どっちも見てもらえると分かるんですが、どっちもすごく面白い映画です。

 ちょっとだけ、その話をします。
SWシリーズと同じく、「超有名作品で、(怒らせたらめんどくさい)熱狂的なファンがいる映画の新作」という条件で撮影された『GODZILLA ゴジラ』と突き合わせると、『ローグワン』の面白さにも迫れる気がします。

ギャレス版ゴジラ(通称ギャレゴジ)を見たとき、私は「これを超えるゴジラは撮れないんじゃないか」とおもいました。結果的に邦画ゴジラの最新作『シン・ゴジラ』が斜め右上にすっとぶ形で凌駕してくれましたが、それほどギャレゴジはかっこよかったのです。ゴジラ映画のなんたるかを知り尽くした監督が撮るゴジラ。マグロ食ってる巨大イグアナとはわけが違いました(あれはあれで面白いんですけどね。ゴジラとさえ名乗ってなければ。)

ギャレゴジには、「核兵器使用の是非」を問わせたシーンがありました。広島の原爆投下時刻に針がとまった時計を見せて、日本の科学者がアメリカの軍人に対し原爆の利用を諫める、というほんの数十秒のシーン。アメリカの資本で撮られた映画で、原爆投下について触れることは、映画の興行成績に影響を及ぼす恐れすらあるにもかかわらず、です。

ゴジラは核廃棄物から誕生した生物です。根底には「核を使う人間への怒り」が込められていて、だからゴジラは、核の恐怖を忘れた大都市を襲います。監督は、そのことをよく知っているから、あのワンシーンが生まれたのだとおもいます。

さて、では『ローグワン』です。 観た直後の感想は、
「ああそうか、これがスター・ウォーズだったのか」
でした。  今年の初めに、「正史」の最新作『ep7.フォースの覚醒』(監督は『アルマゲドン』のJ.J.エイブラムス)を観たとき、わたしは「そうそう、これがスター・ウォーズだよね」と思いました。ep4~6のオマージュが大量に込められた、スター・ウォーズのおいしいところがてんこ盛りになった映画でした。

「正史」の作品群では、主人公たちの動向には関係なく、「だれかが撃たれて、近くにいた友人が慟哭する」みたいなシーンがたまに映ります。「外伝」の『ローグワン』は、そのワンシーンにめいっぱいフォーカスしたような映画でした。

主要キャラクターは全員「正史」には一切絡んできません。英雄もいない。ジェダイがいないので誰もフォースを使わない。でも、当たり前ですが、「正史」の影には彼らのような「rogue(=ならず者)」達がたくさんいた。主人公たちが人間離れした活躍を繰り広げているとき、爆風に焼かれ、胸を撃ち抜かれ、友を殺された名もなき者たち。

ハリウッド資本のゴジラ映画から「原爆」を抜かなかった監督は、スペース・オペラ超大作のスター・ウォーズで「戦争」を描いた気がします。SW正史では大きく描かれない、名もなき愛すべきならず者たちの、おびただしい、時に無意味にも見えるほどに呆気ない死。

 『ローグワン』全編にわたって何度も繰り返されるテーマは、「メッセージを次のひとへと託すこと」でした。父はパイロットにメッセージを託す。メッセージを受け取った子は協力者へ届ける。協力者たちはさらにその協力者へ――そして数えきれないほどの犠牲を出しながら、メッセージはしかるべき者のところへと届けられる。

帝国の旗がひるがえろうと、見えないフリをすればいい。


――でも何かがおかしい。間違っている。


何かが変われば、この世はもっと、自分はもっと、よりよくなるはずだ。

彼らの命がけのバトンリレーの根底には常に「希望」があります。よりよき世の中への希望でもあるし、自分達が死んでも、メッセージを託した次の誰かへの、新しい世界に届けてほしいという切なる願いなのだとおもいます。支配者は彼らを「反乱軍」や「ならず者」と呼ぶ。でも彼ら自身は「革命軍」や「レジスタンス」と名乗るのです。

彼らのあいだには、たとえ自分が死んだとしても、誰かに受け継がれてゆく大儀がある。

という、しちめんどくさい話はおいといて、ですね。

SWのすばらしさを知り尽くした監督だからこそ、唯一にして最高のライトセーバーの使い方ができたとおもいます。閉鎖空間の暗闇で光る赤いライトセーバー。絶望的なシーンだったけれど、あれほんッッと、かっこよかった。あと、ハイパースペースを経て出現する機体のかっこよさはシリーズ中一番だった。

総括すると、

「そういえばep.3~4の間ってジェダイいないじゃん!どうすんだ!」

と考える間もなく終わった二時間半でした。  


ありがとうギャレス...

北野勇作『かめくん』

人間みたいに本を読む。ご飯を食べる。料理もする。

でも、人間じゃない。
彼はカメだ。


北野勇作『かめくん』

 

かめくん (河出文庫)

かめくん (河出文庫)

 

 


多分そんなに遠くない未来。木星らへんで戦争が起こっている。大阪によく似た都市のどこかの商店街の古いアパートに、カメが越してくる。リンゴが好き。するめが好き。図書館で本や映画を借りる。名前はないけど、カメに似せて作った機械なので「模造亀(レプリカメ)」あるいは「機械亀(メカメ)」ともいう。カメなので「かめくん」とも呼ばれてる。

機械なのに、昔のことは覚えてない。

でも、たまに夢見るように古いメモリーがよみがえる。

 

北野勇作作品に人間はあまり登場しない。他作品の『きつねのつき』『カメリ』でもそうだけど、「人間のフリをしているなにものか」がたくさん出てくる。たいてい、なにかが破壊されたあとの世界で、なにかが決定的に失われている。本を開いて一ページ目から伝わってくるのは、何かが欠けてしまった感覚だ(そしてそれでもなお、日々は続く。)

だのに、生々しい。その世界で生きているものは人ではない、いきものですらないものたちばかりなのに、彼らが「食う」とか「寝る」とかすると、そういったことが、すごくリアルで気持ち悪いものとして立ち上がってくる。物語の登場人物たちが「食う」ときは、生命を断ち切り肉汁をしたたらせて貪り食うし、「寝る」といったらそれは死ぬのに近い。

「ほんもの」のない世界で「ほんもの」のフリをするかめくんたちが愛おしい。歌舞伎の女形がつやっぽかったり、宝塚の男役がかっこいいのに似ている。あれは男が女を、女が男を演じることによる「この世ならざるものの美しさ」だから、それと同じように、にせもののいきものがほんもののフリをしている『かめくん』的世界は、ほんものと同じくらいかそれ以上に愛おしくみえる。

 

本を読んだり映画を観たりして、かめくんは「にんげん」を知ろうとしているようでもある。

それは、憧れているみたいに見える。

 

「ほんもの」のない世界で、かめくんが、リンゴが好き、本を読むのが好き、とぽつぽつ考えるとき、その「好き」のところには、ちっちゃく「ほんもの」が宿ってる。

 

と、おもいたい。

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

見終えた直後の私の感想。

「...で?」

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

 

 

 

見終えた後の疲労感がものすごい映画でした。終わった!やっと終わった!うおおおお!みたいな。地獄で狂気じみた100分が終わったのでほっとする感じ。おまえらのやりあいはもう見てられねぇ、ってなりました。

 

でもこれ、すごい評判だった映画なんだよなあ...。

私はもうしばらく見たくないなあ...。

 

筋はものすごく単純で、音大に入った主人公がスパルタ教師のもとで頑張ってドラム叩く話。といったら、「なるほど、スポコン漫画の音楽版ね。『のだめ』とか『ピアノの森』っぽいのかな」って気がするのですが、全くそんなことありませんでした。

なぜなら...この映画、真に音楽好きな人間がひとりもでてこない!

それどころか音楽演奏シーンがちっとも楽しそうじゃない!

 

お、音楽を取り扱った映画なのに!!

 

主人公は、人生挫折した父親をみて「ああはなるまい」と思い夢を追いかけ一流音大に進学しましたが、歳の近い親戚(教育大でラグビーとかやってて、わかりやすく”優秀”な人々)とかと比べられて嫉妬。音大では、「最高のバンド」を作るためなら暴言も暴力も辞さない教師のもとで掌から血がしたたるまでドラムをたたきまくる日々を過ごします。教師は生徒たちを追い詰めまくる。授業中に椅子を投げる。ホメ殺しては奈落の底に突き落とす。メンバーの前で恥をかかせる。後輩に嫉妬させる。その他いろいろ。結局生徒は音楽をあきらめ、教師は学校を追われますが、その後ジャズバーで再会することに...みたいな話。

 

主人公がドラムを叩いて血を流す姿は「必死にドラムを練習している」のではなく、自傷行為に近いし、教師が椅子を投げてる姿は「そんなんで本当にチャーリー・パーカーが排出されたら世話ねぇよ」って感じだ。

要はこれ、「音楽映画」という枠には一応収まっているみたいに見えて、全く音楽映画していない。全編通してやってるのは、凡人同士の意地の張り合い。だって優秀な演奏家をつくるのに必要なのは、嫉妬や怒りの感情を巻き起こすことではないはずだし、ドラムは血が出るほど叩く必要はない。

 

ラストシーンで、なんとなく、凡人二人の意地の張り合いに和解が成立したようにも見えるけど、なんだろうな...画面のこっちがわは完全無視で「いいんだよ、俺達これが気持ちいいから」ってかんじで、最後までこっちがわを引き寄せてくれないかんじがする。それに最初から最後まで、こいつら何にも変わっちゃいねぇんだよ...。

音楽を取り扱った映画で、必ずしも音楽が魅力的に描かれる必要はないし、主人公が成長する必要もない。そして見終えたあとでくったくたになろうが、凄い映画には違いない。だって、こんなふうに「音楽」を取り扱った映画がかつてあったろうか。凡人と天才を描いた『アマデウス』があるけれど...あれだってモーツァルトが音楽の神様の申し子として描かれているから凡人サリエリの悲哀が引き立つわけで。

この映画、音楽の神が見向きもしないところで音楽つかって殴りあってる。

 

「教師と生徒が音楽めっちゃ頑張る話」を期待して観たら裏切られる(私は盛大に裏切られた)ので、「凡人同士が”音楽”を武器に互いの凡人加減を殴りあう話」みたいな予備知識で見たら楽しめそうです。

あと、この映画は、監督の実体験をもとに撮られた映画、ということを知っておくと、より楽しめると思います。すごく私小説めいた感じなのは、要は監督自身、音楽を楽しんでなかったということなのかもしれない。

 

私の場合、ユーモアがもうちょっとあったら楽しめたかも、と思う。

でも、監督はユーモアを入れられない。

それだけ、まだこの体験からは血が滴っているということだとおもう。