まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

B・ハワード監督&R・ムーア監督『ズートピア』

(※以下、絶賛ネタバレ)

(※しかも長い)

みーーー

たーーー

どオオオオオオ!!!

 

B・ハワード監督&R・ムーア監督『ズートピア

 

ディズニー ズートピア ビジュアルガイド

ディズニー ズートピア ビジュアルガイド

 

  

The Art of Zootopia

The Art of Zootopia

  • 作者: Jessica Julius,Byron Howard,Rich Moore,John Lasseter
  • 出版社/メーカー: Chronicle Books
  • 発売日: 2016/03/08
  • メディア: ハードカバー
  • この商品を含むブログを見る
 

 

こんなにおもしろくディズニーを観たのは初めてだああ!

おもしろかった!

ああーおもしろかった!

 

ふう!

 

ところでズートピア、巷では「差別」がテーマといわれます。

うーん、どうだろう。どちらかというと、相手への思い込み、というようなニュアンスが近い気がする。差別と名の付くほどに顕在化しない、社会の暗い部分。「ラベリング(レッテル貼り)」とよばれたりします。

例えば私の身の回りでいうなら、「関西人だからおしゃべり好きだよね」「まだ若いのだから夢があっていいわね」...といったようなかんじ。本編のことばでいうなら、「あなたウサギなんだから可愛らしくしてればいいの」「あなたキツネで信用ならないから仕事あげない」みたいな。

もうひとつ例をあげます。幼いころからの夢だった警察官になり、憧れの大都市ズートピアで働き始めたウサギの女の子・ジュディは、所長から命令される最初の仕事は「駐車違反取締」です。ほかの体の大きな動物たちは、肉食獣の連続失踪事件にかかわっているのに、ジュディだけこのあつかい。これだけで十分理不尽なのですが、実はこの「駐車違反取締」、アメリカでは1930年頃まで婦人警官の仕事でした。それが今は、警察官の仕事ではなくなって久しい。つまりジュディは、「体の小さなウサギでしかも女であるお前に警官の仕事は無理だ」と、暗に突きつけられているのです。

所長は「ミュージカル映画のように歌を歌っても夢が叶ったりはしない。ありのままで(うさぎらしくしていろ)」と言い捨てます。そうですズートピア、セルフパロディまでやっちゃいます。しかも真逆の意味で。ほかにも、ジェンダーや国籍や肌の色にまつわるやりとりが大量に登場します。

書きたいことは山ほどあって、でも結構いろんなすぐれた批評でに言われているので、私が言いたいことだけ書きます。それでもだいぶあるけど。

この映画には、決定的に不愉快な人がひとりもでてきませんでした。そして同時に「めっちゃ善人もいない」世界でした。これ、すごい当たり前のことなのに、こういう物語を探すのはとても難しい。特にズートピアのような、たくさんの登場人物が出てくる映画では、絶対悪、諸悪の根源のような存在を探してしまいそうになる。でもそうはならない。

そしてそれよりもっとすごいのは、各個人にそれぞれ「奥行き」があることです。

なぜそんな顔をするのか、どうしてそういうことを言うのか、なんで彼は改心したのか、どうしてあの人がこんなことをするのか、そういう裏付けがしっかりなされている。どんな端役にも、彼なりの事情があってそうするのだな、というのがわかるのです。あのときジュディを虐めた子も、よく考えればウサギだらけの中に生活していたのだからマイノリティで、爪や牙ではどうにもならない辛いことがたくさんあったにちがいない、ああそれで大人になった彼は少し寂しそうに見えるのかな、みたいな。

いや、実際に、そこまで考えられているかはわからない。
でも、そう読み取りたくなる。そういう魅力が、動物たちにある。
そう思わせるなにかが「ズートピア」にある。

主人公をはじめ、動物たちはいろんな「レッテル」を張られて生きています。悪口、陰口、思い込み。それらはどうしようもない部分もある。でもそういうことを言われ続けることによって、自分の中のやわらかい核のような部分がすこしずつ削り取られていってしまう。

それでも、レッテルだらけの世界のなかで、「このひとは私を損なわない」という相手に出会うことができれば、いままで削られた部分をいっしょに笑うことができる。

後半、うさぎの警察官ジュディと、キツネで詐欺師のニックが繰り返すレッテル的なことば、

「まぬけなうさぎ」

「ずるいきつね」

がとびきり優しいのは、あなたがどう呼ばれようが、すくなくともひとり、この辛い現実のなかに味方がここにいるよ、っていう、二人にしかわからない暗号だからです。

彼らはビジネスライクな関係だから、チューとかハグとか、そういうのはない。
(ただし頭ポンポンはある。)
(この絶妙な距離にキュンキュンして死ぬかとおもった。)

じゃあ二人の関係はLOVEより弱いかというと、そういうのでもない。
主役二人のやりとりは、観ていてすごく心地いい。

特にニックは、ジュディとのやりとりではいつも、絶妙に会話をずらし、自分の本音を言うのを避けつづけますが、その「ずらし方」が実にいい。相手を笑わせてしまうようなやりかたで、しかも会話が成立する程度に「ずらす」。自分がこれ以上傷つかないための防衛でもあるし、相手を傷つけてしまうのを未然に防いでいるようにもみえる。実にいい。っていうか、ニックは実にいい(24歳のジュディに首根っこ捕まれたり蹴倒されたりしてるので、てっきり私よりは年下かとおもいきや、32歳だそうです。まじかよ。)

いつか分かり合えるはずだと、細い水脈をたよりに痛みのあるほうへ歩き続けることでしか、コミュニケーションは生まれない。あるいは、塀の上にのぼって降りてこないならず者には、そろそろ降りなよと呼びかけなきゃいけない。それは地面で生きるものの役目かもしれない。

現実はつらい。でもコミュニケーションを遮断してはならない(遮断すればすぐに、羊の顔をした民族浄化主義がやってくる。)

 

ああ。

あー。

書ききれない。それに全然観たりない。
早くDVDにならないかな。監督のインタビューと、カットした裏設定動画の総集編付きで。

続編でも可。

とりあえず近日中にもっかい行く。
なんだよこの映画、傑作か。

atプラス28号 [特集]生活史

「語りというものは、切れば血が出る。それは生きているのだ。私たちがおこなっているのは、そこで暮らし、生活している個人に直接お会いして、その言葉を聞き取るという作業である。」
("特集によせて"岸政彦)

【特集分冊版】atプラス 28 (岸政彦 編集協力 生活史)

【特集分冊版】atプラス 28 (岸政彦 編集協力 生活史)

ちょっと気になっていて、でも書店においてなくて、仕方ないのでネットで注文しました。初めて買う雑誌ですが、以前読んで素晴らしかった本(『断片的なものの社会学』)の著者が編集協力しています。

届いてた。うれしいなあー。

わたしは社会学を4年やっていましたが、「生活史」ということばを最近知りました。過去の文献やら理論やらを読みあさってやるタイプの卒論を書いたので、社会学的な「フィールドワーク」もしないままでした。そのせいか、生活史の語り口はすごく新鮮なかんじがします。

社会学って、どちらかというと、「個人」は見ない学問のような気がしていた。社会というでっかい流れを読むために、個人個人がどういう動きをしたのかをみる学問、みたいな。個人は粒、社会はうねり。

でも、ここにはかたちのある個人がいる。生活史に携わるひとびとは、西成に、沖縄に、夜のネオン街に、日本と韓国のはざまに、いたるところにいる"個人"にはなしをきく。そしてそこで語っている個人はほんとにただの個人で、「路上生活者」や「普天間」や「キャバ嬢」や「在日」を代表しているわけではなく、わたしたちと地続きの生活のうえに生きている。

当たり前を疑え、と、社会学部で最初に買った教科書には書いてある。

どこにも個人がいて生きているのが当たり前なんだけど、わたしもそういう個人なのだけれど、ともすれば忘れそうになる。別に忘れていたって全く困らないんだけど、でもたまに思い出したくなる。

この雑誌は学術書でもある。
だから、読んで感傷的になるのはなんかちがうきがする。

そこにもひとがいるのか、ってかんじで、フラットな気持ちで読みたい。

(まだ前書きしか読んでない。)

ジョン・アーヴィング『ガープの世界』

みるからに重たそうなカビの生えた埃っぽい単行本を抱えて本に頭をうずめるみたいにして通勤電車にゆられるワンピース姿の会社員を大阪でみかけたら、たぶんそれはわたしでした。
 
アーヴィングの小説って、絶対そうなるんだよなあ。
 

 

ガープの世界〈上〉 (新潮文庫)

ガープの世界〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

ガープの世界〈下〉 (新潮文庫)

ガープの世界〈下〉 (新潮文庫)

 

 

人に読まれるために書かれた一定量の文字を読み、作者のそれまでの人生だとか、どうしても伝えたいことだとか、社会に問題提起したいことだとかを読み取る行為を、実に簡単にやってのけてしまう。
 
それはそれで間違った読み方ではないのだろうけれど、「小説の読み方」としては、ちょっと乱暴なものだとおもっている。自分が書くものに、自分が考えていることを直通させてしまう「作家」が、どこの世界にいるだろう?
 
(いや、その手の方法でベストセラーになる作家もいるのだろうけれど。それはおいといて。)
 
森実登美彦『太陽の塔』がファンタジーだったり(いやわからなくはないけど)、ヴォネガット『スロータハウス5』がSFだったり(いや間違っちゃいないけど)、森鴎外舞姫』が悲恋だったり(承服しかねる)、通りのよいような分類はいくらでもできる。けれど、たぶん本来そういう分類におさまりかねるものが「小説(novel=奇妙なもの)」って呼ばれたはずなのだ。
 
言い淀み、書きあぐね、たとえ話を持ち出し、ときには冗談を言い、遠回りして、なんとかそれらしい結論に導き、なにか得るものがあったような、ただただ時間を浪費したような、よくわからない、ああでも面白かった、というような。
 
本文のことばをそのまま借りるなら、
 
「するときみは次がどうなるか本を読むわけだね?」
「ほかに本を読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」
 
これ以上の素晴らしい読書ってあるだろうか。
 
あー、おもしろかった。
 

山崎貴監督『永遠の0(ゼロ)』

んっ?

えっ??

なんで???

 

山崎貴監督『永遠の0(ゼロ)』 

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

 

岡田くん、エンジントラブル起こすことがわかっている機体に乗って帰ってくればよかったやん?なんでひとに譲ってるん?

私が井上真央やったら(なんかごめん)絶対言うで?

 

「どんな姑息な手段をとっても、とにかく帰ってこい!
 代打の男なんかいらねえ!
 私はあんたに会いたいんだ!!」

 

岡田くんはパイロットたちの教官として、数多くの生徒を殺す役回りになり、それに気を病んで自ら特攻に志願した、っていうのは、筋が通っているようで、よく分からない。たしかに、実際にそういう人はいたのかもしれない。そして「特攻に志願した人の気持ちはその人しかわからない」のなら、私には永遠にわからないものなのかもしれない。

でもこの映画は、わかるように、わからせるように作られている。特攻隊員とおなじ飛行機にカメラを据え、銃弾のなかにつっこみ、頭部を撃ち抜かれ、海面にたたきつけられ、海上でエンジンが停止したときと、同じ絶望を味わうように。カメラの視点は常に「零戦」のため、敵の飛行機を操縦する人の姿は影すらみえず、そのため敵機がいくら撃墜されても痛みは感じない。撃墜された飛行機は遠くのほうで爆発するか、撃たれた時点でカメラからいなくなる。それらは全部、計算されて撮影されているはずだ。

岡田君は序盤から「卑怯者」「臆病者」呼ばわりされ、命のだいじさを後輩に説くような役だった。この映画のなかでは、「人々が死を恐れなくなり”まともな思考”を失われつつあるなか、ただ一人だけ、死にたくないと願う」という、けっこう特殊な役回りで登場する。

そんな人が「どうして自ら特攻隊を志願したか」の理由が、「若者を死に追いやった罪悪感」...そうやって死んでしまうのは、なんか、あまりにかっこよすぎない?

たくさんの死の上で生き続けていることが苦痛とかいっていたけれど、それこそまさに「生き続けること」の痛みなのだから、その痛みを踏み越えて生きるべきだったのではないのか?

岡田君の「かわり」に生き残った菅田くんは、生き残った責任をとるべく、岡田君の妻子と結婚しているけれど、これじゃあ、なんだかよくわからない。なんだろう、このよくわからなさは。「戦争で死んだ人」は岡田くん、「生き残った人」は菅田くんに代弁されるというのだろうか。いくらでも理屈はつけられるけれど、釈然としない。

 

あと長い。とにかく長い。144分て。

 

実は今回は、あらかじめ、どんな感想になるかを予想していた。だって映画評を読んでみても、原作読んでも、どう考えても「私が嫌いそうな邦画」だったから。じゃあわざわざ不愉快になるために観るなよといわれそうだが、父母はわりと絶賛してるし、観ないと感想かけないし、気になっていた。いま、こんなに売れて、映画化のあとドラマ化までされ、色んな人が感動している映画とは、どういうものなのか。

それにしても、公開当時は、とんでもない賛否両論が巻き起こっていたみたいだ。主だった批判は「戦争を賛美している!」で、それに対する意見は「どこ見て戦争賛美や言うてるねん」となるらしい、要約すると。

太平洋戦争をテーマに今の日本で大作映画が撮られるときは、必ず「戦争は駄目だ」というテーマが入る。というか、たぶんそれを抜きにして”売れる映画”を撮るのは、すごく難しいだろう。戦争映画にはある程度「感動」が求められる。もちろん『永遠のゼロ』でも、映画・原作ともに「あの戦争は間違っていた」というようなことが主張されている。だから「戦争賛美だ!」の批判に「どこがやねん!」と返すのは、全然間違っちゃいない。

 

が、それを理由にこの映画を「反戦映画」とするのは、無理だとおもう。

岡田くんと零戦はかっこよすぎ、死にざまは美しすぎる。

 

たしかに、この映画は「泣ける」のだろうし(そういう演出で撮影されている)娯楽超大作だ(爆発や、敵機撃墜シーンは「爽快」ですらある。)でもそれだけだ。零戦が飛ぶのがひたすらかっこよく、岡田君が男前な映画。それ以上の意味はない。

 

私は戦争はしらない。取材もしてない。幸いにして戦争で殺された身内もいない。でもなんだろうな、それを理由に「お前にそんなことを語る資格はない」と言われたら困るけれど、想像はできる。自分の身内の死のエピソードをこんなふうな「戦争映画」にされたら、私は怒ると思う。

 

アルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』

はっふーーーーーー!

めっちゃおもしろかったーーーー!!

 

アルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』 

 

ゼロ・グラビティ [Blu-ray]

ゼロ・グラビティ [Blu-ray]

 

 

はふう。

宇宙を題材にした映画で最近見たのは『オデッセイ』でしたが、そういえばあの映画も「火星でひとりぼっち、あるものを駆使してひとりで生き延びる」映画でしたし、一昨年観に行った『インターステラー』も、テーマはハードなSFでしたが、最終的に宇宙の彼方からひとりで生還する映画でした。あっ、ネタバレ。

ゼロ・グラビティ』でも、登場する人物は実質2人。スペースデブリの衝突により宇宙船は破壊、仲間は死亡、地球との更新も途絶え、虚空にひとりぼっち、そして宇宙服の酸素はのこりわずか。ぼろっぼろの宇宙船にすがりつき、だれの助けも得られない真空世界で、悪夢みたいな危機につぎつぎ陥ってゆく。絶体絶命のなか、どうやって生き延びるか。

海洋映画でおこなわれたサバイバル映画が、今は宇宙を舞台に撮られている。それも、『スターウォーズ』みたいなスペースオペラでも、『インデペンデンス・デイ』のような侵略映画でもなく、宇宙で仕事をする人間を描いた「長回し」の映画が。

もうそれだけ身近なところにあるのだ、宇宙。

宇宙という死の空間で胎児のようにまるまっていた主人公が、地球に生還し、はじめて上陸したいきもののように二本足で大地を踏みしめる、という「生」と「死」の映画でもあります。でも、どちらかというと、宇宙が主人公の映画として観たほうが楽しいんじゃないかなあ。どうだろう。

ちなみに、描かれる宇宙に関するあれこれについては、こんなサイトで細かく検証されています。

「映画ゼロ・グラビティについて:宇宙技術開発株式会社」

http://www.sed.co.jp/tokusyu/gravity.html

 

おっもしろいなあ、宇宙。

おっもしろいなあ。

 

ジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング』

わ、私が観たものはいったいなんだったのか(今週二度目)

ジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング


前振りが大変です。わたしはこんな事件があったことを、まるで知りませんでした。ともあれ、この映画の背景には以下のような歴史があります。すごくザックリですが。

1965年、インドネシアで軍事クーデターが発生しました(9.30事件)。クーデターは「共産党によるものである」とされ、軍に扇動された民間人(自称「プレマン(free-man)」という地元のギャングたち)による「共産主義者」の虐殺がおこなわれました。このとき殺害されたひとは100万人以上になるそうです。

アクト・オブ・キリング』はドキュメンタリー映画で、虐殺を実行したひとに「あなたのおこなった行為を映画にしましょう」と持ちかけ、映画作りをおこなった際の映像とインタビューが元になっています。

過去の殺人をもう一度やってみて、といわれたとき、”加害者”たちはどうするのか?

人々は、カメラの前で、嬉しそうに、笑いながら、踊りながら、どういう風にするのがより正確な映画となるかを談義しながら、殺人を再現します。「俺たちはヒーローだ!映画スターだ!おもいっきりやってやろう!」とでもいう風に、村を燃やす画を撮り、子どもが泣き叫ぶ映像に拍手喝采し、派手な衣装を選び、太った男に女装をさせて暴行するシーンを撮影します。

撮影に協力していた隣家の住人が「自分の養父は殺された、夜突然連れて行かれて朝おきたらドラム缶の下敷きになっていた」というエピソードを語っても、加害者たちは「うん、それは知らんけど」と薄い反応で、養父を殺された彼に暴行し目隠しをし針金で首を絞めるシーンを撮影します。もう、なにがなんだか。

国営放送では「1000人殺した英雄」が拍手喝采されています。インドネシアでは、彼らは「共産党から国を救った英雄」です。登場人物の一人は「俺たちが勝ったから、ルールは俺たちが決める」と言い放っています。

ふう。

「殺人」の再現を経て、ひとりだけ、変化をおこす人物がいます。1000人殺したと自慢げに語る、アンワルという老人。彼はアメリカのギャング映画が好きで、アル・パチーノにあこがれて、映画の殺し方を参考にして殺しをおこなったと嬉しそうに語ります。アル・パチーノの映画デビューは1969年、つまり「虐殺後」です。彼は長い時間をかけて、あの手この手をつかって自分の行為を正当化しようとしてきたのでしょう。

この映画は「ドキュメンタリー映画」ですが、当然監督の手による「編集」が行われています。たとえ編集されていなくても、「何を撮るか」「何を写さないか」を取捨選択している時点で、映像は嘘をついています。

同じように、わたしたちは自分の視たいものを視て、そうであればいい方向へと認識をすすめて生きています。でも、用意された言い訳(共産党が悪いから、そうしないと国が滅びるから、そうしろって言われたから...etc)をいくら信じても、自分のおこないが正当化できないと気づいたとき、苦しみ始めます。

政治的な背景からも、「加害者が自分の行為を再現し、自ら被害者を演じることで、罪の意識にようやく気付いた」と解釈するのは、適当ではないとおもいます。この映画では彼に焦点をあてているため、メッセージが実にわかりやすくなっているように見えますが、苦しむのはアンワルただ一人です。

映画は、アンワルがかつて自分が人を殺した現場に立ち、嘔吐するシーンを映して終わります。廻りにいるはずの撮影クルーは誰も声をかけず、どんな音楽も流れず、ただ彼の背中を映し続けます。

「虐殺」は、どんな背景のもと、どのような心理で行われるのか、そしてその歴史はどのように取り扱われるのか。そういうものが映し出されているとおもいます。

ネメシュ・ラースロー監督『サウルの息子』

私が観たものはいったいなんだったのかと、ぼんやりしてしまった。

ネメシュ・ラースロー監督『サウルの息子』

映画の背景の奥行が広すぎて、どこから説明すればよいのか。

舞台はアウシュビッツ、主人公はユダヤ人で、殺されたユダヤ人の死体処理をおこなう「ゾンダーコマンド(特別労務班)」と呼ばれる仕事をしており、自分の息子の死体を見つけて弔おうとする、という情報があれば、何とかなる。というか、それがすべてなので、あとは、観に行ったほうがいい。

劇場でみたほうがいい映画、というのがあるなら、この映画もそんな一本です。劇場という空間は、あたりが暗く、足元は見えず、座席は狭く前を向くしかなく、ようするに「映画に集中するための設備」が整っています。100分程度の時間、「映画を観させられる空間」です。そういう、逃げ場のない環境で観たほうがいい。

逃げ出したくなるようなひどい映像が映るわけではありません。
ただ、そっちのほうが、サウルにより近づける気がします。

サウルは、劇中、一切の感情をもらさないため、弔おうとしているのが彼の息子かどうかすら、いまいち判然としません。もしかしたら全然知らない子どもだったかもしれない。サウルに関する一切はなにもわからない。わかるのは「死者を弔おうとしている」ということだけ。

もしもこのこどもが本当にサウルの息子なのだと明確に示してくれたなら、私たちはすぐさま「自分のこどもを手厚く弔おうとする父親の物語」に飛びついたろう。サウルを助けてくれる人がいたなら、「どんな場所にも人情はある」というタイプの物語になったろう。

大味で明快な物語に、私たちはすぐにすがってしまう。戦争はひどい、ホロコーストは悪だ、みたいなことを声高に叫ぶような映画もある。でもこの映画はそういう地平をはなれることを選んだ。そして、淡々と「アウシュビッツの日常」を撮影している。

感動もしない。涙もでない。

でも、刺さる。

しばらく抜けそうにない。