まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

ビル・ストリックランド『あなたには夢があるー小さなアトリエから始まったスラム街の軌跡-』

2016年度私的映画ランキングを作れば3本指に収まるであろう映画『ズートピア』には、こんなセリフが登場します。

”世界がキツネのことを、ずるくて信用できないと決めつけるなら、なにをしても意味がない”

ズートピアでは、キツネはずるいから信用できない、肉食動物は乱暴者だ、という偏見が深く根付いています。主人公のひとり、キツネのニックはそのことを経験上熟知しており、ズートピアでは「キツネらしく」ずる賢い詐欺師として生きています。

彼とは対照的に、うさぎのジュディは周囲の声などものともせずに「警察官になる」という夢を実現させます。ジュディはニックに、こんなことを言います。

”私に何ができて何ができないかは私の問題よ!それにあなたみたいに努力もしないで、アイスキャンデーを騙して売ってる詐欺師が偉そうに言わないで”

”ヘマする私を見れば自分のみじめな人生を忘れられる?!”

...ここだけ抜き出したら、ディズニーの主人公らしからぬ酷いセリフだなあ。それはともかく、おそらく、映画冒頭のジュディはこう考えています。

「努力すれば夢は叶う(Anyone can be anything)」
「でも、努力しなかったからあなたは詐欺師に甘んじている」
「あなたの生き方は(わたしよりずっと)みじめだ」

さて、どうだろう。ニックは努力をしなかったのか。叶えたい夢はなかったのか。ジュディの「みじめなあなたの人生」という台詞は「キツネで詐欺師のあなたの人生は私よりずっとみじめだ」という決めつけで、「そうあるべきだ」という願望すら含まれていたかもしれません。

だいぶ前フリがながくなりましたが、今日読み終えた本ではこういう事が書かれています。

”私たちはだれもが、夢をかなえる力を秘めている。その力が発揮できない最大の要因は、その夢は非現実的だ、手が届かない、と自分で思い込むこと、あるいは人から思い込まされることだ"(ビル・ストリックランド『あなたには夢があるー小さなアトリエから始まったスラム街の軌跡-』2008年、P.21)

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

じぶんは貧乏だから、薄汚れた町のほこりまみれの部屋で十分だ、と思う必要はない。貧乏だろうと何だろうと、きれいな部屋に住みたい、心地よい音楽を聴いていたい、美しい花を見ていたい、好きなものに囲まれて暮らしたい、誰だってそうしたい。貧乏や住んでいる場所を理由にしてその夢をあきらめる必要はないし、あなたがそう思うのをとめる権利はだれにもない。

でも、汚い場所にいて気が荒むのは当たり前だ。そんな場所ではまっとうな夢が(たとえば、居心地よく暮らしたいというようなことでも)抱けないのは当たり前だ。そういうわけで、著者は、スラム街に噴水を、上等なカメラを、陶芸用のろくろを、ランの花を育てる温室を、料理教室を、ジャズ・ホールを作ります。ひとは他人に期待されることで、なにものかに、「はたをらくにする」存在になれる。貧乏人らしくではなく、意思を持ち目標を持った人として生きられる――。もちろん、誰にでも当てはまるわけではないようですが、著者の取り組みはアメリカのスラム街でおおきな成果を上げているそうです。

映画のジュディとニックに起こる劇的な転回はなくても、著者のようにすごいことができなくても、自分の居場所を少しだけ心地よくすることなら私にもできそうです。

そんなふうに人生の一瞬を心地よく過ごすことが、”世界をよりよく”する。

あー、いい本読んだなあ。

ポール・フェイグ監督『ゴーストバスターズ』

デッデッデーデデッデ♪

デッデッデーデデッデ♪

 

ポール・フェイグ監督『ゴーストバスターズ(2016年)』

※画像は原作映画

 

 

だめなかんじの科学者たちがニューヨーク市街に現れるゴーストたちに立ち向かう、説明不要の大ヒットSF映画をリブートした作品。

なまら半端な映画好きのわたしにすら、NY市街を逃げ惑う人々のやる気のなさがバレまくっているところとか(あれに比べりゃゴジラの逃げっぷりはだいぶ本気だった)ビルの壊れ方が適当くさいところとか、途中時々シナリオがぶった切って「ここでカットされたところはきっとDVDの特典映像になるんだろうな」って感じさせちゃうところとか、おいおまえ一応ハリウッド映画だろ、しっかりしろよって感じだった。しかもストーリー的にやってることは全編にわたって壮大なるCGの無駄遣い。

映画そのもののgdgd感と、どうでもいいシーンのどうでもいいギャグが半端なく面白い、いっぺんツボに入ったら腹筋壊れるまで笑える映画でした(褒めてます)

あと、すごく、おいしいワンタンスープが飲みたくなる。

あと、二丁拳銃ぶっぱなしたくなる。かっけえ。

でも、なにはさておき、ケヴィンです。

ぶっちゃけゴーストとかどうでもいいです。劇場へ足を運ぶ理由は、「大画面で動くケヴィンを見たいだけ」で十分すぎるほどです。

事務職担当のイケメン・ケヴィン。じぶんが入れたコーヒーに砂糖が入っているか確かめるため一口飲んで「まずい」って吐き戻しちゃうとか(そしてそれを飲む主人公どうかしてる)、メガネのレンズが曇るからってレンズ取っちゃうとか、採用理由が「観賞用」とか、もう最高に一挙一動すべてにおいてラブリーな奴。本編を全部見るのがしんどそうなら、とりあえずDVD出たらエンドロールだけでも観てほしい。最高に馬鹿馬鹿しいケヴィンの独壇場が延々見られる至福の5分間。エンドロールであんなに笑い声上がってるの、初めて見た。

ケヴィンのみならず、キャラクターがすごく魅力的だったので(ホルツマン博士、好きだ)もっと観たかったなー。こんなに面白いならR指定でもなんでもやって、小手先の下ネタではなくキワキワなところまでもっといろいろブチ込んでほしかったなー。緑のデロデロとかもっと活用すればすごく簡単にR指定行きそうなのになあー。

観に行くよー。R指定だろうともー。

デッデッデーデデッデ♪

平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』

学生のときに読みたかったなあ。

平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』

 

 

著者は劇作家。人間そっくりなロボットをつかった舞台などでテレビにも出ていたことがある。教育の場に取り入れられた「演劇」から、ひととひととが「わかりあう」というのがどういうことなのかを、いろんな例を出しながら、ことばを尽くして語っている。

と、いっても、「私たち、こういうふうにしたら、他者とわかりあえました!」という本ではない。タイトルにもなっているとおり、この本の最終的な結論は、

「ひとって、わかりあえないもんだよね」

なのだ。

「私は私以外の誰にもなれない」ということにハッと気が付いて、真っ暗な崖っぷちに立たされたような、ガクガクするような恐怖を感じる。多かれ少なかれ、誰にでも経験があるはずだ。どれだけ親しくても、親子であっても、私は目の前の人のことを、絶対に、永遠に、理解しきれない。他者はでっかい謎に包まれている。

それでも、身近な人々と付き合うために、日本人は敬語を、欧米人はボディランゲージを発達させた。仲間内での団結を確かめるために隠語や略語を使ったり、地方特有の事象をことばで表すために方言もできた。初対面のひとに怖がられないようにマナーも作った。

ひとってわかりあえないものだけど、わかりあえないことを前提にして、うまいことやっていくことはできる。

ほんとうのじぶんとか、自分探しがもてはやされた時期があった。今でも就活の場で唱えられる「適職」とか「自己分析」は、わりとそれに近い。巷に溢れる「いかに正しくじぶんを表現するか」「相手にわかってもらうか」という呪文にに苦しめられているすべてのひとに、

「ただしく伝わらなくて当たり前。だってそういうものだから」

と、こっそり打ち明けてくれるような本。

……でも、それでも。

届くかどうかもわからない、伝わってるかもわからない、こんなことまでことばにしなくちゃいけないのか、こんなことすらあなたにはわからないのかという虚しさと寂しさに耐えながら、細い水脈をたどるように、川の向こう岸に呼びかけるみたいに、あきらめきれずに声をあげる(とは限らないけど、黙るなり、立ち去るなり、なんでもいいけど何かしらする)ところからしか、永遠にわかりあえない「あなた」とのコミュニケーションは始まらない。

そしてそういうものが「表現」と呼ばれる。だから、みんな表現している。あなたのそれも表現だし、わたしのこれも表現だ。だから別に表現というのは特別なものじゃないので、しゃっちょこばって何かを表現する必要はないし、たとえ表現っぽく見えないからといって、誰かのなにかを貶めてはいけない。

たぶん、そういうことも言っている本。

『シン・ゴジラ』を二度観て気付いたことなど

一度目に見たとき、「心理描写がなさすぎて心情吐露が白々しい」と書きました。
 
二度目はそうは感じませんでした。というか、どうして白々しく聞こえたのかが少しわかりました。
 
人の生死は数字でしかなく、死者はみえず、身内も死んでない、でも情報はあふれている。震災報道を見ていたときにかんじた、わけのわからなさに似ている。現実感はきわめて希薄だけれど、でも確実にそこで誰かが死んでいる。だのに、じぶんはどういうわけか生きている。その因果関係のなさが”人間ドラマのなさ”だったのかもしれない。でも、怒り、みたいなものだけはある。ゴジラも怒っているけれど、人間も怒っている。ゴジラみたいなわけのわからないもので理由なく突然死ぬことへの怒りと、その死が顧みられないことへの怒り。
 
ほとんどの人が感情を表に出さないなか、唯一、主人公・矢口のみ、怒るシーンがわずかに存在し、彼にだけ、大勢のひとにむかって自分のことばで演説するシーンが用意されています。「諸君には頑張ってほしい」「日本の未来を君たちに託します」......でもそれらのことばそれを聞いている人々に伝わったのかどうかは、わからない。
 
川を逆流する船や、闇夜に遠くのほうで市街地を焼く炎、崩れ落ちる瓦、みたいなものは、明らかに「3.11」のイメージでした。あのとき、「がんばろう日本」だとか「絆」だとかを被災地から距離も心情も遠く離れた場所で聞きまくった身としては、矢口の台詞を素直な意味で受け止められない。ゴジラによって東京がえらいことになっているなか、「この国はもっとやれる」「きみたちを信じる」みたいなことを言っていたのが、これらの事態を前にしてそういうことばにどれほど意味があるのだろう、みたいな虚しさを感じたのです。
 
でも、高層ビルの残骸のうえで「それでも、まだやれる」とつぶやくときだけ、これらのことばは意味を成すのかもしれない。バラエティ番組のなかで叫ばれる「日本はまだやれる」ということばと比較しちゃいけないのだ、きっと。そこをまぜこぜにしたから、わたしはすごく違和感を感じたんだろう。
 
国家存続の危機に直面したとき現実の日本はどう動くか、がこの映画の土台になっている。見る人によって感想におおきく振れ幅のでる作品だし、それを意図して作られている(その辺も含めて「好きにしろ」なのだろうたぶん。)映画の最後に提示されるのは「ありものでなんとかする戦略」と「壊れたらまた作りなおす精神」そして「覇道ではなく王道」だった。それが現実の日本にできるのか。
 
その辺もふくめて、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」だっだとおもう。

庵野秀明 脚本・編集・総監督『シン・ゴジラ』

なんばから奈良に向かう電車のなか、衝動的に購入したパンフはネタバレになる恐れがあるからとまわりの乗客に配慮して読まず、でも「おれ、見てきたぜ!」アピールはしときたくて、ビニールから表紙が透けて見えてる方を表にしながら、文庫本も音楽も聞く気になれず、口半開きのまま虚空を見つめてにやけている怪しいOLがいたらたぶんそれは私でした。

庵野秀明 脚本・編集・総監督『シン・ゴジラ

 

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 

 

(以下、ネタバレは無いよう気を付けましたが、気になる人はどうぞ本編を見てから読んでください。)

すごかった。初代ゴジラの魂しょってる。観に行く際は、1954年の初代ゴジラを観てから行くのをおすすめします。それから、見る人によって感想がかなり大きく変わるとおもいます。いろんな人に感想を聞いてみたいなあ。

わたしはすごく、一連のオチが好き。

あとあれ。無人在来線爆弾。たぎる。

ところで、ゴジラとは人間の科学技術(核廃棄物)から生まれて、常に人間によって滅ぼされる生き物です。彼は常に怒っている。その怒りとは「なぜ俺は生まれたんだ!」という怒りです。生まれたことに対して怒っている。

特に今回のゴジラは、ビジュアル的にも無機物感が強くて、「荒ぶる神様」感がすごかったです。「荒ぶる神様」相手に、人間が繰り広げるのは、お涙頂戴のヒューマンドラマではありません。この映画、人間の感情がほとんど描かれないせいなのか、主演たちがたまに気持ちを吐露すると白々しく聞こえるほどです(これは初見だからかなあ。筋を追うのに必死だったから。二度目は印象がかわるかもしれない。)

日本にやってくるゴジラの怒りは、ミサイルや爆弾では静まりません。科学技術から生まれたゴジラは、科学技術によってしか鎮まらない。その科学技術がまた新たなゴジラを生むことになっても、たぶん、そうするしかない。

でもそれは、祈りにも似ているかもしれない。鎮魂の祈り。「今の我々にできることはこれが精いっぱいです、どうかお鎮まりください」という祈り。

そういうのを忘れたときに、ゴジラは再び目覚めるのかもしれない。

リッチ・ムーア監督『シュガー・ラッシュ』

これは...おもしろい。すごく面白い。

ストーリーがとびきり!

......という意味ではないのだけれど。

 

リッチ・ムーア監督『シュガー・ラッシュ

 

 

この映画、どこに力点をおくかで、見え方がかなり変わります。

本当は心優しい「いい奴」のラルフは、悪役で大男だからという偏見でみんなから除け者にされている。そんな彼がヒーローになることを夢見て、冒険の末ほんとうのヒーローになる、というストーリーとみれば、なんだかすごくディズニーっぽい。「実はいい奴である」ことを自分で証明する物語(ちょっとだけ『ズートピア』にも通じるところがあります。)

 

一方でラルフは、自分の「悪役」というポジションの大事さを理解せず、他人の居場所(ヒーローのポジション)をうらやんでばかりいる、じめじめした奴でもある。それが物語の最後では、自分の居場所を受け入れて大事にするようになる。ヒーローになったから状況が好転するのではなく、ラルフが悪役を受け入れたことでまわりの態度も評価も変わる、という筋にもなっている。

 

「夢をあきらめるな」と「現状を受け入れる(今いるところを大事にする)」を、おんなじ映画で言っている。この映画では、ラルフは「みんなの」ヒーローではなく、ちっちゃな女の子ヴァネロペただ一人のヒーローになることで、どっちも実現しているんです。

 

ズートピア』もそうだし、『アナ雪』なんかその極みなのだけれど、この「少々つじつまは合わなくても、全体を通じて俺はこれがいいたい」感というのは、ディズニーやピクサーの物語は本当に強いとおもう。すげえな。

ただまあ、私が一番感動したのは、「ゲーム内のキャラクターが自分でバグを修正している」ところでした。

 

なんだ、その超スペック。

 

はやく実現して。

【閑話休題】レリゴーの話

そして人生に何度あるかどうかわからない、まれにみるディズニーブームが到来中のわたし、ズートピア3回目に走りそうになるのをぐっとこらえて(劇場公開は7/15までですよ奥さん。BD発売は8月末ですってよ奥さん)久しぶりにレリゴーを観てました。

それにしても、レリゴー。

この映画、やはりクライマックスは冒頭30分だ。城作ってピーク。城作って「完」てでてもよかったくらい。そして観れば見るほど、どうしてあんなにヒットしたのかわからなくなる。レリゴーに比べれば、ベイマックスのほうが筋としてはどれだけよくできているか。

あれか。やっぱ歌か。確かにレリゴーは名曲だものな。
ほかの曲もかわいいしな。ぼくも同じこと思ってた!とか。
あと、王子に頼らないヒロインっていうのも新しかったのかな。

でもだからといって、どないやねんこの物語。

だいたい姉が引き込もりっていたのは、両親の「力を隠さねばならない」という教育方針が原因で、そのせいで仲良しだった妹との仲すら険悪になっていたのだけれど、そこには一切つっこまない。両親は死んじゃって悲しい、おわり。勝手に魔法の記憶を消したドワーフも何しに来たんやお前。いらんことすなやお前。そしてアナはもう何もするな動くな歌うなじっとしてろあんたが動けば動くほど余計事態が混とんとしてくるじゃないか。

そんで「2」て。

なにするねん「2」で。

なんだろうなあ。オラフのかわいらしさにキュンキュンしたり、クリストフのいい奴ぶりにほれぼれしたり、いろいろできたんだろうか。もうちょっと、曇りなきまなこで見定め青き衣をまといて金色の野に降り立っていれば、もうすこし楽しめたんだろうかなあ、レリゴー。

とりあえずこの勢いで「シュガーラッシュ」と「インサイドヘッド」を観ておこうと思います。