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ギャレス・エドワーズ監督 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

ギャレェェェェェェェェス!!!


ギャレェェェェェェェェス!!!

 

ギャレス・エドワーズ監督
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

 

 

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

アート・オブ・ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

 

 

 

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー  オリジナル・サウンドトラック

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック

 

 

この世界の片隅でギャレスへの愛を叫びたい私!


以下、叫んだ結果、ネタバレはないですがめちゃめちゃ長くなりました。

誰もが知る『スターウォーズ』シリーズは、銀河帝国の歴史を描く壮大な物語です。『エピソードXX』と名付けられた”正史”に対して、『ローグワン』は”外伝”という位置づけ。「ep4(※SWシリーズ公開第一作目)の10分前までの物語」が描かれています。外伝扱いにはなっていますが、ストーリー的には正史と地続きになっており、「ep4」で説明されていなかった物語が語られるので、一部では「ep3.9」と言われたりもしています。

 さてその「ep3.9」を撮ったひとが、ギャレス・エドワーズ。 低予算怪獣映画の傑作『モンスターズ/地球外生命体』や、あのハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』を撮った人で、どっちも見てもらえると分かるんですが、どっちもすごく面白い映画です。

 ちょっとだけ、その話をします。
SWシリーズと同じく、「超有名作品で、(怒らせたらめんどくさい)熱狂的なファンがいる映画の新作」という条件で撮影された『GODZILLA ゴジラ』と突き合わせると、『ローグワン』の面白さにも迫れる気がします。

ギャレス版ゴジラ(通称ギャレゴジ)を見たとき、私は「これを超えるゴジラは撮れないんじゃないか」とおもいました。結果的に邦画ゴジラの最新作『シン・ゴジラ』が斜め右上にすっとぶ形で凌駕してくれましたが、それほどギャレゴジはかっこよかったのです。ゴジラ映画のなんたるかを知り尽くした監督が撮るゴジラ。マグロ食ってる巨大イグアナとはわけが違いました(あれはあれで面白いんですけどね。ゴジラとさえ名乗ってなければ。)

ギャレゴジには、「核兵器使用の是非」を問わせたシーンがありました。広島の原爆投下時刻に針がとまった時計を見せて、日本の科学者がアメリカの軍人に対し原爆の利用を諫める、というほんの数十秒のシーン。アメリカの資本で撮られた映画で、原爆投下について触れることは、映画の興行成績に影響を及ぼす恐れすらあるにもかかわらず、です。

ゴジラは核廃棄物から誕生した生物です。根底には「核を使う人間への怒り」が込められていて、だからゴジラは、核の恐怖を忘れた大都市を襲います。監督は、そのことをよく知っているから、あのワンシーンが生まれたのだとおもいます。

さて、では『ローグワン』です。 観た直後の感想は、
「ああそうか、これがスター・ウォーズだったのか」
でした。  今年の初めに、「正史」の最新作『ep7.フォースの覚醒』(監督は『アルマゲドン』のJ.J.エイブラムス)を観たとき、わたしは「そうそう、これがスター・ウォーズだよね」と思いました。ep4~6のオマージュが大量に込められた、スター・ウォーズのおいしいところがてんこ盛りになった映画でした。

「正史」の作品群では、主人公たちの動向には関係なく、「だれかが撃たれて、近くにいた友人が慟哭する」みたいなシーンがたまに映ります。「外伝」の『ローグワン』は、そのワンシーンにめいっぱいフォーカスしたような映画でした。

主要キャラクターは全員「正史」には一切絡んできません。英雄もいない。ジェダイがいないので誰もフォースを使わない。でも、当たり前ですが、「正史」の影には彼らのような「rogue(=ならず者)」達がたくさんいた。主人公たちが人間離れした活躍を繰り広げているとき、爆風に焼かれ、胸を撃ち抜かれ、友を殺された名もなき者たち。

ハリウッド資本のゴジラ映画から「原爆」を抜かなかった監督は、スペース・オペラ超大作のスター・ウォーズで「戦争」を描いた気がします。SW正史では大きく描かれない、名もなき愛すべきならず者たちの、おびただしい、時に無意味にも見えるほどに呆気ない死。

 『ローグワン』全編にわたって何度も繰り返されるテーマは、「メッセージを次のひとへと託すこと」でした。父はパイロットにメッセージを託す。メッセージを受け取った子は協力者へ届ける。協力者たちはさらにその協力者へ――そして数えきれないほどの犠牲を出しながら、メッセージはしかるべき者のところへと届けられる。

帝国の旗がひるがえろうと、見えないフリをすればいい。


――でも何かがおかしい。間違っている。


何かが変われば、この世はもっと、自分はもっと、よりよくなるはずだ。

彼らの命がけのバトンリレーの根底には常に「希望」があります。よりよき世の中への希望でもあるし、自分達が死んでも、メッセージを託した次の誰かへの、新しい世界に届けてほしいという切なる願いなのだとおもいます。支配者は彼らを「反乱軍」や「ならず者」と呼ぶ。でも彼ら自身は「革命軍」や「レジスタンス」と名乗るのです。

彼らのあいだには、たとえ自分が死んだとしても、誰かに受け継がれてゆく大儀がある。

という、しちめんどくさい話はおいといて、ですね。

SWのすばらしさを知り尽くした監督だからこそ、唯一にして最高のライトセーバーの使い方ができたとおもいます。閉鎖空間の暗闇で光る赤いライトセーバー。絶望的なシーンだったけれど、あれほんッッと、かっこよかった。あと、ハイパースペースを経て出現する機体のかっこよさはシリーズ中一番だった。

総括すると、

「そういえばep.3~4の間ってジェダイいないじゃん!どうすんだ!」

と考える間もなく終わった二時間半でした。  


ありがとうギャレス...

北野勇作『かめくん』

人間みたいに本を読む。ご飯を食べる。料理もする。

でも、人間じゃない。
彼はカメだ。


北野勇作『かめくん』

 

かめくん (河出文庫)

かめくん (河出文庫)

 

 


多分そんなに遠くない未来。木星らへんで戦争が起こっている。大阪によく似た都市のどこかの商店街の古いアパートに、カメが越してくる。リンゴが好き。するめが好き。図書館で本や映画を借りる。名前はないけど、カメに似せて作った機械なので「模造亀(レプリカメ)」あるいは「機械亀(メカメ)」ともいう。カメなので「かめくん」とも呼ばれてる。

機械なのに、昔のことは覚えてない。

でも、たまに夢見るように古いメモリーがよみがえる。

 

北野勇作作品に人間はあまり登場しない。他作品の『きつねのつき』『カメリ』でもそうだけど、「人間のフリをしているなにものか」がたくさん出てくる。たいてい、なにかが破壊されたあとの世界で、なにかが決定的に失われている。本を開いて一ページ目から伝わってくるのは、何かが欠けてしまった感覚だ(そしてそれでもなお、日々は続く。)

だのに、生々しい。その世界で生きているものは人ではない、いきものですらないものたちばかりなのに、彼らが「食う」とか「寝る」とかすると、そういったことが、すごくリアルで気持ち悪いものとして立ち上がってくる。物語の登場人物たちが「食う」ときは、生命を断ち切り肉汁をしたたらせて貪り食うし、「寝る」といったらそれは死ぬのに近い。

「ほんもの」のない世界で「ほんもの」のフリをするかめくんたちが愛おしい。歌舞伎の女形がつやっぽかったり、宝塚の男役がかっこいいのに似ている。あれは男が女を、女が男を演じることによる「この世ならざるものの美しさ」だから、それと同じように、にせもののいきものがほんもののフリをしている『かめくん』的世界は、ほんものと同じくらいかそれ以上に愛おしくみえる。

 

本を読んだり映画を観たりして、かめくんは「にんげん」を知ろうとしているようでもある。

それは、憧れているみたいに見える。

 

「ほんもの」のない世界で、かめくんが、リンゴが好き、本を読むのが好き、とぽつぽつ考えるとき、その「好き」のところには、ちっちゃく「ほんもの」が宿ってる。

 

と、おもいたい。

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

見終えた直後の私の感想。

「...で?」

 

デミアン・チャゼル監督『セッション』

 

 

 

見終えた後の疲労感がものすごい映画でした。終わった!やっと終わった!うおおおお!みたいな。地獄で狂気じみた100分が終わったのでほっとする感じ。おまえらのやりあいはもう見てられねぇ、ってなりました。

 

でもこれ、すごい評判だった映画なんだよなあ...。

私はもうしばらく見たくないなあ...。

 

筋はものすごく単純で、音大に入った主人公がスパルタ教師のもとで頑張ってドラム叩く話。といったら、「なるほど、スポコン漫画の音楽版ね。『のだめ』とか『ピアノの森』っぽいのかな」って気がするのですが、全くそんなことありませんでした。

なぜなら...この映画、真に音楽好きな人間がひとりもでてこない!

それどころか音楽演奏シーンがちっとも楽しそうじゃない!

 

お、音楽を取り扱った映画なのに!!

 

主人公は、人生挫折した父親をみて「ああはなるまい」と思い夢を追いかけ一流音大に進学しましたが、歳の近い親戚(教育大でラグビーとかやってて、わかりやすく”優秀”な人々)とかと比べられて嫉妬。音大では、「最高のバンド」を作るためなら暴言も暴力も辞さない教師のもとで掌から血がしたたるまでドラムをたたきまくる日々を過ごします。教師は生徒たちを追い詰めまくる。授業中に椅子を投げる。ホメ殺しては奈落の底に突き落とす。メンバーの前で恥をかかせる。後輩に嫉妬させる。その他いろいろ。結局生徒は音楽をあきらめ、教師は学校を追われますが、その後ジャズバーで再会することに...みたいな話。

 

主人公がドラムを叩いて血を流す姿は「必死にドラムを練習している」のではなく、自傷行為に近いし、教師が椅子を投げてる姿は「そんなんで本当にチャーリー・パーカーが排出されたら世話ねぇよ」って感じだ。

要はこれ、「音楽映画」という枠には一応収まっているみたいに見えて、全く音楽映画していない。全編通してやってるのは、凡人同士の意地の張り合い。だって優秀な演奏家をつくるのに必要なのは、嫉妬や怒りの感情を巻き起こすことではないはずだし、ドラムは血が出るほど叩く必要はない。

 

ラストシーンで、なんとなく、凡人二人の意地の張り合いに和解が成立したようにも見えるけど、なんだろうな...画面のこっちがわは完全無視で「いいんだよ、俺達これが気持ちいいから」ってかんじで、最後までこっちがわを引き寄せてくれないかんじがする。それに最初から最後まで、こいつら何にも変わっちゃいねぇんだよ...。

音楽を取り扱った映画で、必ずしも音楽が魅力的に描かれる必要はないし、主人公が成長する必要もない。そして見終えたあとでくったくたになろうが、凄い映画には違いない。だって、こんなふうに「音楽」を取り扱った映画がかつてあったろうか。凡人と天才を描いた『アマデウス』があるけれど...あれだってモーツァルトが音楽の神様の申し子として描かれているから凡人サリエリの悲哀が引き立つわけで。

この映画、音楽の神が見向きもしないところで音楽つかって殴りあってる。

 

「教師と生徒が音楽めっちゃ頑張る話」を期待して観たら裏切られる(私は盛大に裏切られた)ので、「凡人同士が”音楽”を武器に互いの凡人加減を殴りあう話」みたいな予備知識で見たら楽しめそうです。

あと、この映画は、監督の実体験をもとに撮られた映画、ということを知っておくと、より楽しめると思います。すごく私小説めいた感じなのは、要は監督自身、音楽を楽しんでなかったということなのかもしれない。

 

私の場合、ユーモアがもうちょっとあったら楽しめたかも、と思う。

でも、監督はユーモアを入れられない。

それだけ、まだこの体験からは血が滴っているということだとおもう。

 

 

ピート・ドクター監督、ロニー・デル・カルメン監督 『インサイドヘッド』

「大丈夫、あなたがだいすきだよ」と言ってくれるものは、どんなときも自分の内側にある。

 

ピート・ドクター監督、ロニー・デル・カルメン監督
『インサイドヘッド』(2015,アメリカ映画)

 

 

よかった。面白かった。結構泣いた。私も人の心持ってた(くどい)ピクサーの必殺技「とことんしらべる」と「視覚化して伝える」がいかんなく発揮されていて、たとえば意識の門番やら明晰夢の作られ方といったシーンが何の説明もなくさらっと出てくる、最高に変で最高に楽しい映画でした。フロイト読みたい。

一か所、3D的だったキャラクターたちがポリゴンっぽくなり、二次元になり、一次元になり...という、なんか面白いけど意味がわからんシーンがありまして、調べたところ、「抽象思考のプロセスの視覚化」だったことが判明しました。

 

どういうことなのピクサー。天才なの?

 

さて、舞台は11歳の女の子・ライリーの頭の中。脳の司令塔に常駐している、感情をコントロールする5つの感情、ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミたちが、ライリーの転校という大イベントをきっかけにして、パニックになる様子が描かれます。

ってこれ、すごい変な設定。

普通、「ライリーの転校」がテーマの映画で描かれるのはライリーが戸惑う様子のはずだ。たとえば、クラスのやんちゃな女子にいじめられるとか。でも、この映画ではそういうことは起こらない。ライリーの感情たちが、ライリーのことを思ってそれぞれなんとかしようと脳みその中を動き回るだけだ。

 

感情たちの行動や、脳内にあるいろんな施設は見ているだけでも楽しい。でも、終盤ボロボロ泣けてくるのは、これが全部「ライリーの頭の中」で起こってるってことに気付いたときだ。

どれだけ落ち込もうが、どんなしんどい目に遭おうが、数えきれないほどのたのしい、かなしい、さまざまな記憶があって、むかし側にいてくれた架空の友達がいて、それらが全部私の中にあって、今の私を動かしている。

ただ、私がおもいだせないだけで。

 

劇中、感情たちが何度も朗らかに宣言するのは、

 

「わたしたちは皆、ライリーがだいすき!」

 

ってことだ。つまりそれは、ライリーは「ライリー」が好きってことだ。

誰が何と言おうとそうなのだ。

 

馬鹿みたいでも、それって最強じゃないだろうか。

 

デヴィッド・エアー監督『フューリー』

と、いうわけで、予告通り見た。

 

デヴィッド・エアー監督『フューリー』(2014,アメリカ)

 

 

第二次世界大戦末期、アメリカの戦車(低火力・紙装甲)に乗り込みドイツ軍と戦う兵士5人の話。

せっかく『ガールズ・パンツァー劇場版』(※くどいようだがパンツ映画ではない)を見たことだし、前から気になっていた戦車&戦争映画も見ておこうと思った次第です。

ガルパンを先に見ていたおかげで、

「なるほどこれがティーガーか」
「戦車のタイヤは履帯っていうのか」
「主砲は88mm!」

といった、戦車的知識面をいろいろ楽しめました。

 

※以下、ネタバレ。

 

ところで、前線へ戦いにいく系の”戦争映画”には「最も若い者は生きて帰る」という鉄則のようなものがあります。『七人の侍』とか『プライベート・ライアン』とか『永遠のゼロ』あたりもそうですが、「主人公より若い者」や「新入り」は主人公が死ぬ場合でも生きて帰れることが多い。

『フューリー』でも若者は生きて帰れます。理由は単純で、

 

「俺たちはこうして死んだということを、若いお前(=この映画を見た人)は覚えておいてくれ」

 

ということなのだろう、とおもいます。

そういう映画は多くの場合「これが戦争の真実である」とでも言いたげなふうに語られます。特に、いわゆる泣ける系の「真実を語りたがる系の戦争映画」でよく使われる手法のひとつに、主人公の美化があります。

たとえばアメリカ映画の場合、制圧した街のドイツ人女性に手を出そうとする同僚をぶちのめす、みたいな描写がなされたり、敵国の女の子と運命の恋に落ちたり。「酷いこともしたけれど、俺達だって人間だ」みたいなことを、雄弁に語りたがる。

ところがこの『フューリー』、確かに新入りは生き延びるけれど、ちょっと変なところがあります。

新入りが泣きわめいたり、銃を握るのをためらう描写だったり、敵国女性との交流だったり、メンバー同士の友情だったり、お約束的なものは描かれます。でも、決定的に感情移入させてくれない。敵国女性との関係は、構築される前に同じ戦車に乗る仲間によって打ち砕かれる。異文化コミュニケーションは成り立たない。

見ているこっちは「そうだよね、極限状態だからこうしているだけで、環境さえ許せば君たちだってほんとはいいやつだよね」と思いたいのに、そうさせてくれない。

 

終盤、新入りに与えられるニックネームは「マシン」でした。酒も飲める。敵国の女もヤれる。人も殺せる。だからお前は機械=マシンだ。

名前を付与されたことで、やっと若手が「一人前」として認めてもらったわけですが、同時にこんな風にも言っている気がします。

 

「俺たちは機械だ」

 

だから、ラストシーンを見たとき、私は本当に一瞬意味が分かりませんでした。ただ一人生き延びた若者は、弾も尽き、武器も持たない状態で、敵兵に見つかってしまいます。でも、敵兵はなにもせず、ただニヤリと笑って去る。

 

ええっ、なぜ?!

そこは撃つでしょ。主人公たち今までやってきたように。

だってこの映画、今までそういう映画だったでしょ?

 

その理由がいわゆる「人道的配慮」とか、もっとざっくり「親切」とかいった、人としてのすごくまっとうなものだ、ということに気づく。

そんな映画。

予備知識皆無で見た『ガールズ&パンツァー劇場版』

はやってるので、観てきた。

 

ガールズ&パンツァー劇場版』

 

 

 

 

 

そこは『君の名は』じゃないのかと突っ込んではいけない。

 

地上波すら観ず、とりあえず「女の子が戦車乗って色々する話」という予備知識しかないまま、地上波放送全話網羅&劇場場は音響目当てだという夫のオットー(仮名、日本人)といっしょに出かけました。ちなみに劇場へ向かうまでの私のガルパン知識は「女の子が戦車(パンツァー)に乗り込み市街地で実弾使って試合(※敵軍の潰しあい)する話」

...この時点ですでに突っ込みが追い付かないのだけれど突っ込んではいけない(二度目)

 

立川シネマシティで上映されている、極上爆音上映を見に行きました。一年を超えるロングラン公開中だとか。

会場は満員。ポスターの日付が「11/22」で、あ、これ去年の?!ってなりました。応援寄せ書きには「これが50回目です!」のコメントがいくつも貼ってある。

どういうことなの...毎週来てるってこと...?

 

音がいいとは聞いてましたが、ほんとにすごかった。座席が震える。耳のごちそう。直前に『シン・ゴジラ』を極上音響で見たところでしたが、あちらはちょっとぼやぼやしたところがあったのに対し、凄いクリアな感じがしました。すべての音が粒だって聞こえるかんじ。あと、戦中歌謡曲が盛りだくさんだったし(カチューシャとかポーリシュカポーレとか)、ミフネ作戦(スピルバーグのおバカ映画『1941』のパロディ)がでてきたので、意外と楽しめました。...渋いネタぶっこんでくるなあ。

 

ところで、ガルパンしかり、艦これしかり、ストライクウィッチーズしかり、「ミリタリー×おんなのこ」の取り合わせって、ウケるんだろうなあ。おそらく、バイク×おんなのこ、と同じ理由で。ミリタリー系には「礼節」とか「従順」といった要素を容易に加えられるので、おんなのことも相性がいいのだとおもわれる。

しかも各国の軍事を絡められるので、国際ネタ的な安易で鉄板のギャグも簡単に導入できるときた。たとえば、ロシア人キャラは突撃するとき始終「ボルシチー!」「ピロシキー!」って叫んでるとか。フィンランド人はとりあえずムーミンとか。

海外のアニメでは日本人キャラはみんな「みそ汁ー!」とか「塩じゃけー!」って叫んでるのだろうか。

そしてこの手法、ほとんどヘタリアと同じ...

ド直球に擬人化している分、あっちの方が素直な気すらする...。

 

まあ、とりあえず、あれだ。

映画の感想としては、 

・音が良かった
・パンツは出てこなかった

以上。

 
さて、『フューリー』借りに行くか。

ビル・ストリックランド『あなたには夢があるー小さなアトリエから始まったスラム街の軌跡-』

2016年度私的映画ランキングを作れば3本指に収まるであろう映画『ズートピア』には、こんなセリフが登場します。

”世界がキツネのことを、ずるくて信用できないと決めつけるなら、なにをしても意味がない”

ズートピアでは、キツネはずるいから信用できない、肉食動物は乱暴者だ、という偏見が深く根付いています。主人公のひとり、キツネのニックはそのことを経験上熟知しており、ズートピアでは「キツネらしく」ずる賢い詐欺師として生きています。

彼とは対照的に、うさぎのジュディは周囲の声などものともせずに「警察官になる」という夢を実現させます。ジュディはニックに、こんなことを言います。

”私に何ができて何ができないかは私の問題よ!それにあなたみたいに努力もしないで、アイスキャンデーを騙して売ってる詐欺師が偉そうに言わないで”

”ヘマする私を見れば自分のみじめな人生を忘れられる?!”

...ここだけ抜き出したら、ディズニーの主人公らしからぬ酷いセリフだなあ。それはともかく、おそらく、映画冒頭のジュディはこう考えています。

「努力すれば夢は叶う(Anyone can be anything)」
「でも、努力しなかったからあなたは詐欺師に甘んじている」
「あなたの生き方は(わたしよりずっと)みじめだ」

さて、どうだろう。ニックは努力をしなかったのか。叶えたい夢はなかったのか。ジュディの「みじめなあなたの人生」という台詞は「キツネで詐欺師のあなたの人生は私よりずっとみじめだ」という決めつけで、「そうあるべきだ」という願望すら含まれていたかもしれません。

だいぶ前フリがながくなりましたが、今日読み終えた本ではこういう事が書かれています。

”私たちはだれもが、夢をかなえる力を秘めている。その力が発揮できない最大の要因は、その夢は非現実的だ、手が届かない、と自分で思い込むこと、あるいは人から思い込まされることだ"(ビル・ストリックランド『あなたには夢があるー小さなアトリエから始まったスラム街の軌跡-』2008年、P.21)

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

あなたには夢がある 小さなアトリエから始まったスラム街の奇跡

じぶんは貧乏だから、薄汚れた町のほこりまみれの部屋で十分だ、と思う必要はない。貧乏だろうと何だろうと、きれいな部屋に住みたい、心地よい音楽を聴いていたい、美しい花を見ていたい、好きなものに囲まれて暮らしたい、誰だってそうしたい。貧乏や住んでいる場所を理由にしてその夢をあきらめる必要はないし、あなたがそう思うのをとめる権利はだれにもない。

でも、汚い場所にいて気が荒むのは当たり前だ。そんな場所ではまっとうな夢が(たとえば、居心地よく暮らしたいというようなことでも)抱けないのは当たり前だ。そういうわけで、著者は、スラム街に噴水を、上等なカメラを、陶芸用のろくろを、ランの花を育てる温室を、料理教室を、ジャズ・ホールを作ります。ひとは他人に期待されることで、なにものかに、「はたをらくにする」存在になれる。貧乏人らしくではなく、意思を持ち目標を持った人として生きられる――。もちろん、誰にでも当てはまるわけではないようですが、著者の取り組みはアメリカのスラム街でおおきな成果を上げているそうです。

映画のジュディとニックに起こる劇的な転回はなくても、著者のようにすごいことができなくても、自分の居場所を少しだけ心地よくすることなら私にもできそうです。

そんなふうに人生の一瞬を心地よく過ごすことが、”世界をよりよく”する。

あー、いい本読んだなあ。