山崎ナオコーラ『かわいい夫』
お魚の焼け具合を真剣に見つめる眼差し。
毎晩、好きな詩を朗読する声。
お風呂にはいっているときでも、頼まれたらニコニコしながらバスタソースの瓶を開けてくれたりもする。
ことほどさように、山崎ナオコーラさんの夫氏は大変かわいい。
山崎ナオコーラ『かわいい夫』(夏葉社、2015年)
スイカを食べたこととか、ちょっと俳句を読んでみたことといった、なんてことのない毎日が、山崎ナオコーラさんのなんともいえない味わい深い日本語で語られていく。つかっているのは、私と同じ言語なのに、どうしてこんなに味わい深さがちがうのだろうか。
妊娠~育児の日々を綴った『母ではなくて、親になる』もそうだったのだけれど、ぐるぐると、同じところをなんども散歩するみたいな思索が、たいへん心地いい。
一編読み終えて、新しい発見も驚きもないけれど、ちょっとだけ身の回りの風景がきらっとしてみえる、みたいなそういう心地になる。
なにより、ナオコーラさんが夫氏や我が子を慈しんでいる様子が、いい。こんなふうに大切にされている夫氏や赤子がうらやましい。
そして、そんなふうにできるナオコーラさんのことも、うらやましいなあとおもう。
あ、自慢じゃないけど、うちのオットーも負けず劣らずなかなかかわいい。でも関係性とは揺れ動くものだから、いつまでかわいいとおもってられるのか、今後どう変わっていくのか、わからない。怖い。
揺れるなかで、どれだけ、きれいなものを見てられるだろう。その方法を、遠くの方でそっと囁いてくれてるみたいなエッセイです。
腎盂腎炎になりまして(その後)
腎盂腎炎パニックから10日が経過しました。
処方されたお薬(熱さましと抗生物質)のおかげで、その後、熱はぶり返さず、腰の痛みも引きました。産休まで残り5日だった会社も休暇をずらしてもらって出社できました。
抗生物質さまさま。
なのですが。
私が一週間飲んだ抗生物質は、腎臓にどのような大腸菌が感染したのかが特定されるまでの”つなぎ”として飲んだものでした。今日、再診をうけてきまして、はたして菌が特定したのですが...。
抗生物質への耐性をもった、いわゆる「耐性菌」でした。
「クロ現で聞いたことあるやつや...」
とつぶやいたら先生笑ってました。
耐性菌といっても、すべての抗生物質が効かないわけではないため、妊娠中でも使える薬を処方してもらってかえってきました。っていうか事前に処方されていた抗生物質でもそこそこ効果があったので、ひとくちに「耐性菌」といえどいろいろバリエーションがあるとみえる。腎盂腎炎の原因としての耐性菌は最近増えているようです。菌が大腸にいる間は悪さしないけど、それがよそにいくから病気になる。持ってる分には害はないが、病気になったとき怖い。そんなかんじらしいです。
耐性菌がでてくる原因としては、
・抗生物質の乱用により常在菌が変化した
・知らん間によそからもらってきた
があるらしい。
今回の私の場合は、尿道からの感染だから、常在菌変化が有力なのかな。そういえばちいさいころ、風邪で抗生物質飲んだりしていたなぁ。...でも結局どういう経路でそれを持つに至ったかは特定困難だし、特定しても無意味のようです。
ちなみに風邪に抗生物質は効かないので、むやみやたらと飲んではいけないそうです。風邪引いた、そういえば昔もらったやつがあったな、って飲むのは最悪。あと、感染症で処方された抗生物質を途中で飲むのをやめてしまうのもよろしくないそうです。
で、先生曰く、今後できることは腸内環境をととのえて、耐性菌の居心地を悪くしていくしかないそうです。とり急ぎヤクルト買ってきました。
もう少し、病院にかかるのが遅れていたら、腎盂腎炎は更に悪化して、妊娠中で使える薬も少なくて、入院&点滴しかなかったところでした。あっぶねぇ。
というわけで、抗生物質はもらった分ちゃんと飲み切りましょう、古いやつは捨てましょう、という話でした。
あと腎盂腎炎まじしんどいし、完治に2週間はかかるし、女性はおしっこ我慢したらわりと簡単にかかるので、ほんと気を付けてください...。
腎盂腎炎になりまして
ここ一週間ほどだるかったのはさすがに妊娠後期だからかなー
寒気は貧血かなー
熱が出たのは疲れてたのかなー
…全部ちがいました。
まじで妊娠なめてた。
土曜日に激しい悪寒からの高熱(38~39度)を出したのですが、熱が引いたので放置していたところ、月曜日にまた繰り返して、こりゃいかんと内科にかかったところ、
『 腎 盂 腎 炎 』
になっていたことが判明しました。
おそろしげな字面ですが、ようは「膀胱炎ほったらかしにした結果、腎臓が細菌にやられてる状態」みたいなやつのようです。妊婦にはわりとおこりがちで、だいたい1~2%が発症するらしい。…多いのか少ないのかよくわからん数字だなぁ。
症状は、
・悪寒からの高熱(私はすぐ引いたけど、数日続くことがおおいらしい)
・片側の背中~腰の痛み(ぽんと軽く触るだけでしびれるような激痛)
・頻尿
・尿のにごり
などなど......ですが。
寒気も発熱も腰痛も頻尿も、妊婦したらよくあるやつ!!!
完っっっっっ璧に油断してた!!!
あと特に尿濁ってなかった!!!
でも病院いって尿検査してもらったら、白血球とか潜血とか蛋白とかばっちりでてました。
尿検査半端ない!そんなんわからんやん普通!
いままで血圧も糖も蛋白も体重も正常範囲で、せいぜい貧血と便秘くらいで、検診のたびに「順調ですねー」で診察を終えてきた健康そこそこ優良妊婦のはずだったのに、ここにきてまさかの感染症とは…
虐待のニュースをみて考えたこと
まず、結論から言うと、Twitterでみかけた「虐待をした親が一番悪いはずなのに、なんでも現政権の批判材料にしたがるのはどうかとおもう」という趣旨の文章が許せなかった。
それは、政権批判をする人を批判したいがために、今回の事件を利用しているだけではないか。こういう批判の仕方、「批判する行為そのものへの批判」は、自分のことばももたないくせに、ちょっと斜めからモノを言いたいだけの人がすることではないのか。
本当に批判したいなら、虐待を政治のせいにすることがどういう点でおかしいといえるのか、具体的に挙げるべきではないのか。
私は、どちらかというと、「虐待は社会的な問題」と考えている。社会がこれほど不寛容になってしまったのは、積もり積もった政策の、慣れの果てでもあるとおもう。そうなると、政策を打ち立てたのは3年しか政権を握れなかった民主党よりも、自民党のほうなのだろう。民主党がいい政策をとっていたとも思わないけど、単純に、社会の空気を醸造するのには3年じゃ足りなさすぎる。だから、自民党が批判されうるのもまぁ納得する。
ただ、今回の虐待事件を受けて、現政権批判をしているまとまった文章を見たことがないので、この「現政権批判をするな」という批判自体、的外れな可能性がある、ともおもっている。
まあ、そこはどうでもいい。
以下からは、「虐待は社会的な事象である」ということについて、私なりに考えたことを書いてみる。
そもそも私は私自身の意思の強さをあんまり信用していない。私が「こうしたい」とおもってやっていることは、この世界の”何か”に、「そうしなければならない」とおもわされていることのほうが多いと思っている。
我が子を虐待するような人たちが、人の心をもたない極悪人なのではないのだろう。ただ、彼らは、こう考えたはずだ。
「子どももスリムな体型がかっこいい」
「小さい時から字が書けた方がいい」
「親のいう事を聞くほうがいい」
「電車の中では静かなほうがいい」
「遊ばず勉強する子のほうがいい」
「お手伝いをよくするほうがいい」
上記に挙げたものは全部、今後私もおこなうであろう”我が子へのしつけ”と、すごく隣接している。
糖尿病は「デブで不摂生な人の病気」であり、肺がんは「タバコをばかすか吸った報い」である、とみなされがちなように、親のいうことをきかない子どもの存在は「教育の失敗」とみなされる。
本屋に行けば、いかにすれば教育に「成功」できるかについて書かれた本が並んでいる。この世界の”何か”は、親の教育の「成功」をもとめている。彼らはそのことを必要以上に内面化してしまった。しかも、彼らはある程度、子どもの教育には「成功」したのだとおもう。死んでしまったあの子は、親のいう事をよく聞き、ひらがなも書けて、意思表示のために文章を組み立てて長い手紙を書ける、とてつもなく「いい子」だったのだから。
私は「彼らのようはなりたくない」とおもっている。でも、どういうことがきっかけで、私が新たな「彼ら」になるかもわからない。可能性がないとはいえない。もし、そうなってしまったとき、やめようとおもってやめられるだろうか。これはよくないことだと思えるだろうか。この世界の”何か”からの要請は、私の意思よりずっと強い。
この世界の”何か”とは、電車の中で泣き叫ぶ子どもの側でなすすべもなくただ立っている親への冷たいまなざしに代表されるものだとおもう。泣き叫ぶ子の傍らに立つ親は、すまなそうにするしぐさを求められている。「私の教育が至らないせいで皆々様にご迷惑をおかけしまして」と社会にむけて頭をたれるのが、まっとうな親の姿だと思われている。優秀な親じゃなくてもいいさ、とおもえるだろうか。電車の中で向けられる冷たい視線、Twitterに飛び交う罵詈雑言、そういうものを全く気にせずにいられるだろうか。わたしは頭を垂れる側だとおもう。でもそれは「まっとう」なのか? それが「まっとう」だとはおもいたくない。
社会のせいだとか、政治が悪いとか、短絡的に言うつもりはない。
社会の不寛容は想像力の欠如が生む。親の責任だというのは簡単だ。でも、虐待という事象には、個人の意思よりも、もっとずっと社会的なものが絡んでいる。「すぐに社会や政治のせいにするな」と言う人は、あまりにも想像力がなさ過ぎる。
私は、子どもがスーパーで暴れてようが、「おーおー、暴れておるわ」と大目にみてくれる社会ならばありがたいとおもう。もちろん、商品ひっくり返すとか盗むとかしたら怒らなくてはいけないけれど(器物損壊で窃盗という名の犯罪だからだ)子どもが子ども的に泣いたりわめいたりする分には、子どものうちしかできないのだから別にいいんじゃないの、と思ってくれたらいいのにな、とおもう。子どもが泣き止まないのは子どもの都合で、私のせいではないと思えたら、私のようなプレ親はじめ、たくさんのまっとうなおとなは楽になるだろうにな、とおもう。
【閑話休題】たぎるアニソン打線
録画しておいた『BLACKLAGOON』見た後、「たぎるアニソンで打線組もうぜ!」って話になり、オットーと小一時間ねばって考えた結果が以下の通りです。ご収査下さい。
1.レフト:バリバリ最強No.1/地獄先生ぬ~べ~
2.ショート:シュガーソングとビターステップ/血界戦線
3.一塁:胸がドキドキ/名探偵コナン
4.投手:Over Soul・Northern Lights/シャーマンキング
5.二塁:Ghost Sweeper/GS美神
6.三塁:SIX SHAME FACES~今夜も最高!!!!!!~/おそ松さん
9.センター:TANK!/カウボーイビバップ
入場行進曲
米林宏昌監督『思い出のマーニー』
劇場公開時に観たオットーに感想を聞くと、「背景がきれいだった」と返したこの作品。私自身、同じ評価を『ゲド戦記』『借りぐらしのアリエッティ』で下したことがあるので、前評判からしてよろしくなかったといえよう。
うん、それは認める。
でもそれ以上に、かなりヤバイ映画だった。
『思い出のマーニー』
(米林宏昌監督/スタジオジブリ、2014年)
※以下、かつてなくディスり倒します
主人公・杏奈がヤバすぎてヤバい。教師に絵を見てもらえなくて喘息悪化しちゃうのがかまってちゃんすぎてヤバイ。親切にしてくれた子に平気で「ふとっちょぶた」とかあだ名つけちゃうのヤバイ。心開けない理由が終盤までわからなさ過ぎてヤバイ。理由が分かったところで前半の態度がヤバすぎて挽回できずヤバイ。明らかに誰もいない家を見て「誰もいないのね」とか言っちゃうの説明台詞すぎてヤバイ。夕方5時から遊びにでかけて夜までかえってこないとヤバイ。しょっちゅう泥まみれで道端に倒れてるのヤバイ。
全体的に杏奈がサイコパスっぽくてヤバイ。
ヤバすぎて、「映画的にこういう感想を抱かせたいのであろうな」というシーンや台詞は多々用意されているにもかかわらず、そういうもろもろに殆ど一切感情移入ができず、アニメ映画的な見どころもなく、なんかボーっとしてる間に終わった。
ヤバイ。
ヤバみはまだまだある。ヤバイ。
映画の冒頭、杏奈は友人たちの輪から離れて一人で絵を描いています。そこに先生が来て「絵をみせて」といわれ、彼女は照れて頬を赤らめながら絵をみせようとします。杏奈は「『見せて』と言ってきたのが学校生活における最高権力者だから」見せたように見えるのです。おそらく同級生が同じように「見せて」といってきても、彼女は見せなかったはずですし、同級生にはエグいあだ名をつけているはず。
あるいはマーニーとの出会い。杏奈はマーニーに出会って5秒で心惹かれます。でも、同じく唐突な出会いだった「ふとっちょぶた」ちゃんとは最後まで友達にはなれません。理屈では説明できない縁という以上に、マーニーが「金髪碧眼の美少女だから」一目で好きになったと思われるのです。目の色の話題がちょろっとでてきたくらいで、マーニーが金髪碧眼であるべき理由がないし。
ほんとうに、この「ふとっちょぶた」ちゃんの扱いのひどさには、「デブスとは友達になれなくても、美人のマーニーならなれる」とでも言いたいのか、とおもってしまった。そして年頃の女の子に「ふとっちょぶた」などと面と向かって言った罪は、エンドロール程度の和解では許されないとおもう。真に許されるべきなのはおまえだ杏奈。
親切にしてくれる子に対しても心を閉ざしてしまうというのにしても、もうすこし気持ちよく、杏奈を好きになれる見せ方ができたはず。たとえば杏奈も努力しているとかがあれば。それか、もしかして、杏奈とマーニーが気持ちよく可愛く動いてりゃ他はどうでもいいのか、この映画?
一応、ええ話ではあるんです。自分で閉ざしたこころをもう一度開く話、トラウマと向き合う話、自分のルーツをたどることで外の世界を見つめる話。私が挙げた程度の杏奈のヤバみにも、一応、説明はつけられる。
が、だからどうだというのだ。
おもんない。アニメとして単純におもんない。
あ、背景は綺麗でした(※結論)
椎名高志『GS美神 極楽大作戦!!』
ルシオラ...
きっ...
きっ...
きさまァァァァァァァァァァァァ!!!
なにさまのつもりじゃワレェェェェェェェェ!!!
ええ、オットーの本棚からこそこそ持ち出しては夢中で読みふけったこの一週間、そりゃあもう、楽しかったですよ。小学生のころ、夏休みのたびに「朝のこども劇場」でアニメを見ていたのを思い出しましたよ。職場の廊下で「だいたん~な~わたしの~わざのなか~」とか口ずさむくらいテンションあがりまくってましたよ。
前半のドタバタコメディはいろいろな作品のオマージュ満載で探すのが楽しいし(横島くんのおとうちゃんが来る回の扉絵がスターウォーズで笑った)中盤から徐々に”凡人”だったはずの横島くんが強くなっていくのにはわくわくした。それと同時に美神さんとのつながりが深く濃ゆくなっていくのも楽しかった。おキヌちゃんやマリアは漫画連載から25年がたつ今もなお可愛いし、アニメには登場しなかったシロや玉藻たちが暴れまわるのはすごくすごーく楽しかった。
だのに!!!!!
ぽっと出の薄幸の美少女(主の命令に背けない敵キャラ・寿命設定・自己犠牲精神の3大特典つき)においしいとこぜーーーんぶもっていかれましたでーーー!!!
アシュタロス編...たしかに「エエ話」ではあったけれど。けれど!!!
横島くんの能力インフレ状態も終わり、いきなり日常編がかえってきたときの安心感っが最高でした。しかも今度はおキヌちゃんだけでなく、シロも玉藻ちゃんもいる。ひのめちゃんのその後も気になる。彼女はさぞや美人さんになるのであろうなあ。
横島くんと美神さんがその後どうなったのか、ルシオラとは結局どうなのか、本編で一切語られなくなったのは確かにすこし残念ではあるけれど、それはそれで「深い絆」の体現とも読める。でも「ルシオラと恋に落ちることによって自分に自信がついた」あとの横島くんの煩悩暴走っぷりが鳴りを潜めたのはちょっと残念、いやそれが普通なはずなのだけど。
ハチャメチャな人々の「いつものかんじ」が続くっていうのが、GS美神最大の魅力だったとおもう。
はああああ...
読み終わってしまったよ...
さみしいなあ。
でも、楽しかったなあ。 夢中で読んだ。
久しぶりにそういう漫画を読んだ気がする(※個人的には『封神演義』以来)