まめ書架

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【小説】いとうせいこう『想像ラジオ』

この本を読むたび、死んだじいちゃんのことをおもいだす。もうずいぶん前のことだから、ラジオはやってないかもしれない。

それでも、わたしはラジオが聞きたくなる。

じいちゃんといまならいろいろ喋れるのに、とおもう。


いとうせいこう『想像ラジオ』


じいちゃんが死んだのは病気のせいで、病院でみんなに見守られながら亡くなった。だから、そりゃあ、ばあちゃんを残し死ぬのが心配だったり、孫の成長を見られないのが悔しかったり、いろいろあったろうけれど、「なぜ俺が死なねばならない」という無念さの質みたいなものは、地震のような大災害で突然いなくなってしまった人のそれとは、違うかもしれない。じいちゃん自身も、わたしたちも、ある程度心の準備はしていたろうから。

だからわたしには、この小説を読んでボロボロ泣いてしまうとき、ちょっと罪悪感をかんじる。おまえに泣く資格はあるのか?知り合いはみな関西に暮らし、ボランティアもせず、募金もたいしてせず、なんの痛みも味わうことなくのうのうと過ごしてきたくせに?


うーん。そうなんだなあ。

それを言われちゃうと、かえすことばもない。


でも、人間はそのうち死ぬ。地震でなくても、脳梗塞だったり心不全だったりで、あっけなく突然死ぬこともある。

この小説はおもに、地震でなくなった人のはなしを書いている。「木の上に引っ掛かったひと」という強烈な図がまずあって、そこから、ラジオ局をひらくという物語になったという。でもなかには、そうでない死者、というのも登場する。

これまで、死ぬことは個人的な物語だった。大勢のひとがいちどきにいなくなる、そんな、信じられない出来事があったから、ラジオ局は開かれ、古今東西、たくさんの死者が繋がることになったのだ。いや、それ以前から、みんなラジオ局をやっていた。ただ、聴く耳をもたなかっただけだ。

だからじいちゃんも、もしかすると、ラジオのDJをやっていたかもしれない。わたしもそのうち、DJをやるのだろう。そのとき、ただ呆然とことばをなくしてやるべきこともできず、わたしの声に耳をすましてくれるひとは誰だろう。

じいちゃーん。

聴こえるかーい。