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まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

ジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング』

わ、私が観たものはいったいなんだったのか(今週二度目)

ジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング


前振りが大変です。わたしはこんな事件があったことを、まるで知りませんでした。ともあれ、この映画の背景には以下のような歴史があります。すごくザックリですが。

1965年、インドネシアで軍事クーデターが発生しました(9.30事件)。クーデターは「共産党によるものである」とされ、軍に扇動された民間人(自称「プレマン(free-man)」という地元のギャングたち)による「共産主義者」の虐殺がおこなわれました。このとき殺害されたひとは100万人以上になるそうです。

アクト・オブ・キリング』はドキュメンタリー映画で、虐殺を実行したひとに「あなたのおこなった行為を映画にしましょう」と持ちかけ、映画作りをおこなった際の映像とインタビューが元になっています。

過去の殺人をもう一度やってみて、といわれたとき、”加害者”たちはどうするのか?

人々は、カメラの前で、嬉しそうに、笑いながら、踊りながら、どういう風にするのがより正確な映画となるかを談義しながら、殺人を再現します。「俺たちはヒーローだ!映画スターだ!おもいっきりやってやろう!」とでもいう風に、村を燃やす画を撮り、子どもが泣き叫ぶ映像に拍手喝采し、派手な衣装を選び、太った男に女装をさせて暴行するシーンを撮影します。

撮影に協力していた隣家の住人が「自分の養父は殺された、夜突然連れて行かれて朝おきたらドラム缶の下敷きになっていた」というエピソードを語っても、加害者たちは「うん、それは知らんけど」と薄い反応で、養父を殺された彼に暴行し目隠しをし針金で首を絞めるシーンを撮影します。もう、なにがなんだか。

国営放送では「1000人殺した英雄」が拍手喝采されています。インドネシアでは、彼らは「共産党から国を救った英雄」です。登場人物の一人は「俺たちが勝ったから、ルールは俺たちが決める」と言い放っています。

ふう。

「殺人」の再現を経て、ひとりだけ、変化をおこす人物がいます。1000人殺したと自慢げに語る、アンワルという老人。彼はアメリカのギャング映画が好きで、アル・パチーノにあこがれて、映画の殺し方を参考にして殺しをおこなったと嬉しそうに語ります。アル・パチーノの映画デビューは1969年、つまり「虐殺後」です。彼は長い時間をかけて、あの手この手をつかって自分の行為を正当化しようとしてきたのでしょう。

この映画は「ドキュメンタリー映画」ですが、当然監督の手による「編集」が行われています。たとえ編集されていなくても、「何を撮るか」「何を写さないか」を取捨選択している時点で、映像は嘘をついています。

同じように、わたしたちは自分の視たいものを視て、そうであればいい方向へと認識をすすめて生きています。でも、用意された言い訳(共産党が悪いから、そうしないと国が滅びるから、そうしろって言われたから...etc)をいくら信じても、自分のおこないが正当化できないと気づいたとき、苦しみ始めます。

政治的な背景からも、「加害者が自分の行為を再現し、自ら被害者を演じることで、罪の意識にようやく気付いた」と解釈するのは、適当ではないとおもいます。この映画では彼に焦点をあてているため、メッセージが実にわかりやすくなっているように見えますが、苦しむのはアンワルただ一人です。

映画は、アンワルがかつて自分が人を殺した現場に立ち、嘔吐するシーンを映して終わります。廻りにいるはずの撮影クルーは誰も声をかけず、どんな音楽も流れず、ただ彼の背中を映し続けます。

「虐殺」は、どんな背景のもと、どのような心理で行われるのか、そしてその歴史はどのように取り扱われるのか。そういうものが映し出されているとおもいます。