まめ書架

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山崎貴監督『永遠の0(ゼロ)』

んっ?

えっ??

なんで???

 

山崎貴監督『永遠の0(ゼロ)』 

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

 

岡田くん、エンジントラブル起こすことがわかっている機体に乗って帰ってくればよかったやん?なんでひとに譲ってるん?

私が井上真央やったら(なんかごめん)絶対言うで?

 

「どんな姑息な手段をとっても、とにかく帰ってこい!
 代打の男なんかいらねえ!
 私はあんたに会いたいんだ!!」

 

岡田くんはパイロットたちの教官として、数多くの生徒を殺す役回りになり、それに気を病んで自ら特攻に志願した、っていうのは、筋が通っているようで、よく分からない。たしかに、実際にそういう人はいたのかもしれない。そして「特攻に志願した人の気持ちはその人しかわからない」のなら、私には永遠にわからないものなのかもしれない。

でもこの映画は、わかるように、わからせるように作られている。特攻隊員とおなじ飛行機にカメラを据え、銃弾のなかにつっこみ、頭部を撃ち抜かれ、海面にたたきつけられ、海上でエンジンが停止したときと、同じ絶望を味わうように。カメラの視点は常に「零戦」のため、敵の飛行機を操縦する人の姿は影すらみえず、そのため敵機がいくら撃墜されても痛みは感じない。撃墜された飛行機は遠くのほうで爆発するか、撃たれた時点でカメラからいなくなる。それらは全部、計算されて撮影されているはずだ。

岡田君は序盤から「卑怯者」「臆病者」呼ばわりされ、命のだいじさを後輩に説くような役だった。この映画のなかでは、「人々が死を恐れなくなり”まともな思考”を失われつつあるなか、ただ一人だけ、死にたくないと願う」という、けっこう特殊な役回りで登場する。

そんな人が「どうして自ら特攻隊を志願したか」の理由が、「若者を死に追いやった罪悪感」...そうやって死んでしまうのは、なんか、あまりにかっこよすぎない?

たくさんの死の上で生き続けていることが苦痛とかいっていたけれど、それこそまさに「生き続けること」の痛みなのだから、その痛みを踏み越えて生きるべきだったのではないのか?

岡田君の「かわり」に生き残った菅田くんは、生き残った責任をとるべく、岡田君の妻子と結婚しているけれど、これじゃあ、なんだかよくわからない。なんだろう、このよくわからなさは。「戦争で死んだ人」は岡田くん、「生き残った人」は菅田くんに代弁されるというのだろうか。いくらでも理屈はつけられるけれど、釈然としない。

 

あと長い。とにかく長い。144分て。

 

実は今回は、あらかじめ、どんな感想になるかを予想していた。だって映画評を読んでみても、原作読んでも、どう考えても「私が嫌いそうな邦画」だったから。じゃあわざわざ不愉快になるために観るなよといわれそうだが、父母はわりと絶賛してるし、観ないと感想かけないし、気になっていた。いま、こんなに売れて、映画化のあとドラマ化までされ、色んな人が感動している映画とは、どういうものなのか。

それにしても、公開当時は、とんでもない賛否両論が巻き起こっていたみたいだ。主だった批判は「戦争を賛美している!」で、それに対する意見は「どこ見て戦争賛美や言うてるねん」となるらしい、要約すると。

太平洋戦争をテーマに今の日本で大作映画が撮られるときは、必ず「戦争は駄目だ」というテーマが入る。というか、たぶんそれを抜きにして”売れる映画”を撮るのは、すごく難しいだろう。戦争映画にはある程度「感動」が求められる。もちろん『永遠のゼロ』でも、映画・原作ともに「あの戦争は間違っていた」というようなことが主張されている。だから「戦争賛美だ!」の批判に「どこがやねん!」と返すのは、全然間違っちゃいない。

 

が、それを理由にこの映画を「反戦映画」とするのは、無理だとおもう。

岡田くんと零戦はかっこよすぎ、死にざまは美しすぎる。

 

たしかに、この映画は「泣ける」のだろうし(そういう演出で撮影されている)娯楽超大作だ(爆発や、敵機撃墜シーンは「爽快」ですらある。)でもそれだけだ。零戦が飛ぶのがひたすらかっこよく、岡田君が男前な映画。それ以上の意味はない。

 

私は戦争はしらない。取材もしてない。幸いにして戦争で殺された身内もいない。でもなんだろうな、それを理由に「お前にそんなことを語る資格はない」と言われたら困るけれど、想像はできる。自分の身内の死のエピソードをこんなふうな「戦争映画」にされたら、私は怒ると思う。