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まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

『シン・ゴジラ』を二度観て気付いたことなど

一度目に見たとき、「心理描写がなさすぎて心情吐露が白々しい」と書きました。
 
二度目はそうは感じませんでした。というか、どうして白々しく聞こえたのかが少しわかりました。
 
人の生死は数字でしかなく、死者はみえず、身内も死んでない、でも情報はあふれている。震災報道を見ていたときにかんじた、わけのわからなさに似ている。現実感はきわめて希薄だけれど、でも確実にそこで誰かが死んでいる。だのに、じぶんはどういうわけか生きている。その因果関係のなさが”人間ドラマのなさ”だったのかもしれない。でも、怒り、みたいなものだけはある。ゴジラも怒っているけれど、人間も怒っている。ゴジラみたいなわけのわからないもので理由なく突然死ぬことへの怒りと、その死が顧みられないことへの怒り。
 
ほとんどの人が感情を表に出さないなか、唯一、主人公・矢口のみ、怒るシーンがわずかに存在し、彼にだけ、大勢のひとにむかって自分のことばで演説するシーンが用意されています。「諸君には頑張ってほしい」「日本の未来を君たちに託します」......でもそれらのことばそれを聞いている人々に伝わったのかどうかは、わからない。
 
川を逆流する船や、闇夜に遠くのほうで市街地を焼く炎、崩れ落ちる瓦、みたいなものは、明らかに「3.11」のイメージでした。あのとき、「がんばろう日本」だとか「絆」だとかを被災地から距離も心情も遠く離れた場所で聞きまくった身としては、矢口の台詞を素直な意味で受け止められない。ゴジラによって東京がえらいことになっているなか、「この国はもっとやれる」「きみたちを信じる」みたいなことを言っていたのが、これらの事態を前にしてそういうことばにどれほど意味があるのだろう、みたいな虚しさを感じたのです。
 
でも、高層ビルの残骸のうえで「それでも、まだやれる」とつぶやくときだけ、これらのことばは意味を成すのかもしれない。バラエティ番組のなかで叫ばれる「日本はまだやれる」ということばと比較しちゃいけないのだ、きっと。そこをまぜこぜにしたから、わたしはすごく違和感を感じたんだろう。
 
国家存続の危機に直面したとき現実の日本はどう動くか、がこの映画の土台になっている。見る人によって感想におおきく振れ幅のでる作品だし、それを意図して作られている(その辺も含めて「好きにしろ」なのだろうたぶん。)映画の最後に提示されるのは「ありものでなんとかする戦略」と「壊れたらまた作りなおす精神」そして「覇道ではなく王道」だった。それが現実の日本にできるのか。
 
その辺もふくめて、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」だっだとおもう。