まめ書架

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平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』

学生のときに読みたかったなあ。

平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』

 

 

著者は劇作家。人間そっくりなロボットをつかった舞台などでテレビにも出ていたことがある。教育の場に取り入れられた「演劇」から、ひととひととが「わかりあう」というのがどういうことなのかを、いろんな例を出しながら、ことばを尽くして語っている。

と、いっても、「私たち、こういうふうにしたら、他者とわかりあえました!」という本ではない。タイトルにもなっているとおり、この本の最終的な結論は、

「ひとって、わかりあえないもんだよね」

なのだ。

「私は私以外の誰にもなれない」ということにハッと気が付いて、真っ暗な崖っぷちに立たされたような、ガクガクするような恐怖を感じる。多かれ少なかれ、誰にでも経験があるはずだ。どれだけ親しくても、親子であっても、私は目の前の人のことを、絶対に、永遠に、理解しきれない。他者はでっかい謎に包まれている。

それでも、身近な人々と付き合うために、日本人は敬語を、欧米人はボディランゲージを発達させた。仲間内での団結を確かめるために隠語や略語を使ったり、地方特有の事象をことばで表すために方言もできた。初対面のひとに怖がられないようにマナーも作った。

ひとってわかりあえないものだけど、わかりあえないことを前提にして、うまいことやっていくことはできる。

ほんとうのじぶんとか、自分探しがもてはやされた時期があった。今でも就活の場で唱えられる「適職」とか「自己分析」は、わりとそれに近い。巷に溢れる「いかに正しくじぶんを表現するか」「相手にわかってもらうか」という呪文にに苦しめられているすべてのひとに、

「ただしく伝わらなくて当たり前。だってそういうものだから」

と、こっそり打ち明けてくれるような本。

……でも、それでも。

届くかどうかもわからない、伝わってるかもわからない、こんなことまでことばにしなくちゃいけないのか、こんなことすらあなたにはわからないのかという虚しさと寂しさに耐えながら、細い水脈をたどるように、川の向こう岸に呼びかけるみたいに、あきらめきれずに声をあげる(とは限らないけど、黙るなり、立ち去るなり、なんでもいいけど何かしらする)ところからしか、永遠にわかりあえない「あなた」とのコミュニケーションは始まらない。

そしてそういうものが「表現」と呼ばれる。だから、みんな表現している。あなたのそれも表現だし、わたしのこれも表現だ。だから別に表現というのは特別なものじゃないので、しゃっちょこばって何かを表現する必要はないし、たとえ表現っぽく見えないからといって、誰かのなにかを貶めてはいけない。

たぶん、そういうことも言っている本。