読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

デヴィッド・エアー監督『フューリー』

と、いうわけで、予告通り見た。

 

デヴィッド・エアー監督『フューリー』(2014,アメリカ)

 

 

第二次世界大戦末期、アメリカの戦車(低火力・紙装甲)に乗り込みドイツ軍と戦う兵士5人の話。

せっかく『ガールズ・パンツァー劇場版』(※くどいようだがパンツ映画ではない)を見たことだし、前から気になっていた戦車&戦争映画も見ておこうと思った次第です。

ガルパンを先に見ていたおかげで、

「なるほどこれがティーガーか」
「戦車のタイヤは履帯っていうのか」
「主砲は88mm!」

といった、戦車的知識面をいろいろ楽しめました。

 

※以下、ネタバレ。

 

ところで、前線へ戦いにいく系の”戦争映画”には「最も若い者は生きて帰る」という鉄則のようなものがあります。『七人の侍』とか『プライベート・ライアン』とか『永遠のゼロ』あたりもそうですが、「主人公より若い者」や「新入り」は主人公が死ぬ場合でも生きて帰れることが多い。

『フューリー』でも若者は生きて帰れます。理由は単純で、

 

「俺たちはこうして死んだということを、若いお前(=この映画を見た人)は覚えておいてくれ」

 

ということなのだろう、とおもいます。

そういう映画は多くの場合「これが戦争の真実である」とでも言いたげなふうに語られます。特に、いわゆる泣ける系の「真実を語りたがる系の戦争映画」でよく使われる手法のひとつに、主人公の美化があります。

たとえばアメリカ映画の場合、制圧した街のドイツ人女性に手を出そうとする同僚をぶちのめす、みたいな描写がなされたり、敵国の女の子と運命の恋に落ちたり。「酷いこともしたけれど、俺達だって人間だ」みたいなことを、雄弁に語りたがる。

ところがこの『フューリー』、確かに新入りは生き延びるけれど、ちょっと変なところがあります。

新入りが泣きわめいたり、銃を握るのをためらう描写だったり、敵国女性との交流だったり、メンバー同士の友情だったり、お約束的なものは描かれます。でも、決定的に感情移入させてくれない。敵国女性との関係は、構築される前に同じ戦車に乗る仲間によって打ち砕かれる。異文化コミュニケーションは成り立たない。

見ているこっちは「そうだよね、極限状態だからこうしているだけで、環境さえ許せば君たちだってほんとはいいやつだよね」と思いたいのに、そうさせてくれない。

 

終盤、新入りに与えられるニックネームは「マシン」でした。酒も飲める。敵国の女もヤれる。人も殺せる。だからお前は機械=マシンだ。

名前を付与されたことで、やっと若手が「一人前」として認めてもらったわけですが、同時にこんな風にも言っている気がします。

 

「俺たちは機械だ」

 

だから、ラストシーンを見たとき、私は本当に一瞬意味が分かりませんでした。ただ一人生き延びた若者は、弾も尽き、武器も持たない状態で、敵兵に見つかってしまいます。でも、敵兵はなにもせず、ただニヤリと笑って去る。

 

ええっ、なぜ?!

そこは撃つでしょ。主人公たち今までやってきたように。

だってこの映画、今までそういう映画だったでしょ?

 

その理由がいわゆる「人道的配慮」とか、もっとざっくり「親切」とかいった、人としてのすごくまっとうなものだ、ということに気づく。

そんな映画。