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まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

マーク・オズボーン監督『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』

「本好き」を標榜する私ではありますが、「星の王子さま」を読んだのはだいぶ大人になってからです。

マーク・オズボーン監督
『リトル・プリンス-星の王子さまと私-』(2015、フランス)


高校生の時だったかなあ。行きつけの美容室の待合スペースで、一冊だけ挟まってたのです。暇つぶしに読みました。「なんか説話臭い話だなあ」と思ったきりで、特別感動することはありませんでした。

ひとがいいというものに素直に同意したくないお年頃。

いまもか。
(※以下、無駄に長いです)

さて、この映画ではそんな「星の王子さま」の世界が、紙の質感を感じる丁寧なコマどりアニメで再現されています。この質感がほんとうに素晴らしい。いつまでも観ていたくなる。原作をさほど読み込んでいない私でも、「星の王子さま」の世界がすごく愛しくなりました。

タイトルにもあるとおり、この映画は「星の王子様と”私”」の話です。もうひとりの主人公の世界はCGアニメで描かれています。こちらはフルCGのはずですが、動きがすごくコマどりっぽくて可愛いです。

主人公は「女の子」。名前はない。もうすぐ9歳になる。趣味や特技は語られず、「女の子」という記号しか与えられていません。彼女は「お母さん」と一緒に暮らしている。お母さんは激務のかたわら、女の子を「ちゃんとしたおとな」にするため日々奮闘している。分刻みのスケジュール、山のような宿題、人生に役に立つものがもらえる誕生日プレゼント...。女の子に友達はいない。だって勉強の邪魔になるから。本は問題集以外読まない。だって役に立たないから。彼女らは「これからの人生を有利にするための学校」へ行くために、直角に区切られた真っ白な街の一角に越してくる。

「お父さん」はいない。お父さんは女の子の誕生日に、毎年、ビル街に雪が舞うスノードームを送ってくるだけの存在だ。多分「お父さん」が見ているのはそんな風景だけで、9歳になる女の子へのプレゼントにもそんなものしか思いつかない。

女の子は「おとなの星」に暮らしている。「効率的で」「有意義で」「計画的で」その他いろいろ「おとなであれ」と各方面から言われる世界だ。女の子は「おとなになんかなりたくない」とおもう。
女の子はまだ9歳でこどもだけれど、こどもの在り方を忘れてしまっている。大人の世界でなんとかやっていくためには、子どもは子どもであり続けるわけにはいかないからだ。

そんな「女の子」の新しい家の隣にくらしているのが、けったいな老人だ。裏庭で飛行機のプロペラを回して壁を破壊したり、無免許運転してみたり、ケーキ屋さんに嘘ついておまけしてもらおうとしたり、とにかくいろいろ普通じゃない。街では変わり者すぎて疎遠にされている。彼は女の子に自分が書いた物語を一ページずつ手渡す。彼の飛行機が砂漠に不時着したときに出会った、羊をほしがるふしぎな男の子の物語だ。

こうして、女の子は初めて「物語」を読む。

お母さんの言う通り、こんなもの人生のなんの役にも立たない。大学入試に出てこない。株の動きも教えてくれない。字を覚えるには非効率的すぎるし、助長なところが多すぎる。

それでも、わたしたちは物語を読む。誰かとのかなしい別れをやり過ごすのに、楽しい思い出を忘れないために、時に辛く酷く厳しい人生となんとか折り合いつけるために、何が何でも必要だからだ。

映画の終盤、女の子も必要に迫られて「自分の物語」を語りだします。星の王子さまはちゃんと自分の星に帰れたのか、バラとは再会できたのか、王子はどんな「おとな」になったのか。それが知りたくて、荒唐無稽で、あり得ないことが山ほど起きる、ご都合主義の物語を作り上げます。

この映画は、単なる「星の王子さま」という作品の映像化ではなく、「星の王子さまを読んだ”私”の読書体験」の映像化でもあるのです。

ずっとこのしあわせな世界にいたい。
でもやがて、映画は終わる。こどもはおとなになる。長い別れの時が来る。
そんな苦みの余韻まで原作を踏襲した、素敵な映画。