まめ書架

読書、映画、ときどき音楽。あるいは芝居。

西谷弘監督『昼顔』

暗闇にしずむちいさな駅に停車した電車から、二人の男女が降りてくる。
踏切をこえて岐路へつく彼らの背後で、走り去る電車の車窓のちいさくて仄かな灯りが遠ざかる。

灯りはいつも遠ざかる。

届きそうで、届かない。

 

『昼顔』(監督・西谷弘、東宝/2017年)

 

そう、これは、2014年、木曜22時のフジテレビに旋風を巻き起こした伝説のダブル不倫ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』の劇場版なのです。ただし、タイトルには”劇場版”と表記されていません。内容も、ドラマ版の出来事を知らなくても楽しめます。吉瀬美智子も出ない。そしてわざわざ”劇場版”と銘打つ必要のないほどの映画でした。

 

トーリーは「不倫モノ」としては鉄板で、映画の前評判をかるく聞くだけである程度エンディングの想像はつきます。オチを予感しつつも飽きずに楽しめたのは、画面が観ていてとても面白いせいだとおもいます。

 

たとえば、主人公が不倫相手の妻の家に出向いたときにカンカンに沸いているお湯や、得体のしれない白い粉末の入った透明なガラス容器、背後でスラリと並ぶ大小さまざまな包丁には、胃がぎゅーっとなりました。何気ない台所の風景が凶行現場にしか見えない。伊藤歩が背中で手を組んで立っているだけでその手に凶器を握ってるんじゃないかと疑わざるをえない。

ホラーかとおもった。怖かった(※誉め言葉)

 

不倫というと、夫のいない時間を見計らって愛人を家に招き入れ夫と眠るベッドで快楽をほしいままにする、とか、誰もいない深夜のオフィスの事務机の上で、あるいは屋上で、みたいなものを想像しがちです。あれって全部、「ちゃんとしているべき場所」での”不貞”行為だから燃える、みたいな演出になっていますが、『昼顔』の不倫はそういうのではない。主人公と不倫相手の関係は実にプラトニックです。ホタル探しを無言でたのしみ、手をつなぐこともしなません。だがそんな「プラトニック(=精神的)」なものであるからこそ、逆に燃えます。

 

法的に誰か別のひとと夫婦であろうとも、頭の中まで効力はおよばない。「夫ではないひとを愛したかどで罰をうけた」と呟く主人公は、不倫が社会的な悪だと認識しながらも、”でも、それのなにがわるいのか?”と言わんばかりに、再会を「法的に」禁じられたかつての不倫相手に接近します。

映画版は特に、法的な夫婦に真っ向から喧嘩を売っている気がする。

不倫が社会的に罰せられるのは、”一夫一妻制なる社会制度に反する行為”だからであり、多分それしかない。裏を返せば、「不倫が容認されている社会であれば罪ではない」ということでもあります。

(※ただし、当然ですが、不倫した人は不倫された人に怒られない、不倫された人は傷かない、というわけではありません。恋愛は他者とのあいだに序列をつける行為です。自分より優位に立つ他者が許せない気持ちは、どんな社会にも存在するとおもいます。)

 

社会的には許されない恋をする闇の中で、淡い光に手を伸ばし続ける。咲いては消える打ち上げ花火のように、そこにあるかとおもえば儚く消えていくものを追い求める。

映画を観ると、きっとどんな人でも、不倫している主人公を応援せざるをえなくなる。「婚姻」という社会的正しさに守られている本妻より、闇の底から何度でも這い上がる主人公のほうが、どうみても切実に生きている。

――たとえ彼女が追いかけ続けたのが、光などではなく、ただの「影」だったとしても。

 

法的な夫婦に喧嘩を売り、闇の底から這いあがり続ける女性を描いた作品として、あのラストは当然だとおもいました。なんしか、思ってた以上に、すごい映画だった。ドラマの劇場版、と、なめてかかってごめんなさい。

 

なんか思いがけず長くなってしまったなあ。

 

でも最後にもう一言。

 

映画では、百葉箱が印象的に登場します。百葉箱の中は常に一定の温度が保たれています。静かな川辺にそっと設置された古ぼけた百葉箱は、主人公たちがこの映画で得ようとした、静かでささやかな生活のようにも思われます。

そのなかに人知れず隠された美しいもの、それはたしかに「ある」ということが、この映画の希望だったのではないかとおもいます。